カテゴリー「天皇」の6件の記事

2015年1月10日 (土)

元旦に北極星を礼拝する天皇

  北極星を信仰の中心としたのは道教であり、またその原理を取り込んで日本独自に成立した陰陽道である。
 現代人には馴染みが薄くなってしまったが、今なお天皇との関わりは浅からぬものがある。とくに、天皇御一人においておこなわれる祭祀に今もなお、はっきり伝わっている。これを四方拝(しほうはい) という。
  四方拝とは、正月元旦に、天皇がおこなう陰陽道の祭祀である。
  旧暦一月一日 の寅の刻(午前四時頃)、天皇は黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)という黄色の朝服(ちょうふく)を着用し、清涼殿の東庭に出御する。
  天皇はまず北に向かい、自らの属星(ぞくしょう)を拝する。
  属星(ぞくしょう)とは、陰陽道では、誕生年によって定める北斗七星の中の一つの星で、その人の運命をつかさどる命運星のことである。以下のように生まれ年で北斗七星の命運星が決まる。
 午年    →破軍(はぐん)星
 巳・未年→武曲(ぶごく)星
 辰・申年→廉貞(れんてい)星
 卯・酉年→文曲(もんごく)星
 寅・戌年→祿存(ろくそん)星
 子年    →貪狼(どんろう)星
 丑・亥年→巨門(こもん)星
  この中の自身の星を最初に拝するのだ。
  そして次ぎに天を拝し、西北に向かって地を拝し、それから四方を拝し、山陵を拝する。
  このとき天皇は以下の呪言を唱える。

  賊寇(ぞくこう)之中(しちゅう)過度(かど)我身(がしん)、毒魔(どくま)之中(しちゅう)過度(かど)我身(がしん)、毒気(どくけ)之中(しちゅう)過度(かど)我身(がしん)、毀厄(きやく)之中過度我身、
  五鬼六害(ごきろくがい)之中過度我身、五兵口舌(ごひょうくぜち)之中過度我身、厭魅(えんみ)咒咀(じゅそ)之中(しちゅう)過度(かど)我身(がしん)、
  百病(ひゃくびょう)除癒(じょゆ)、所欲随心(しょよくずいしん)、急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)。

  最後の「急々如律令」は、陰陽道独特の呪文である。漫画や映画でも、安倍晴明がしばしば唱えていたので、ご記憶のむきも少なくないだろう。
  片手か両手で印を組んで唱えれば良い。意味は、強いて言えば「急ぎ律令のように厳しくせよ」といったところだが、実際の使われ方とはあまり関係はない。呪文とはそうしたもので、文言が一人歩きする。
  この前段に並んでいる文言も、多少の異動はあるが一千年以上使われてきている呪文である。字面の通り、賊や毒や危害、病気、苦悩などの排除を祈念するものであるが、文法的には省略されて、やはり呪文化している。
  なお発音は参考までにルビをふったが、本来我々の容喙(ようかい)すべからざる領域のことであって、みずから唱えるただ上(かみ)御一人のみの知るところである。四方拝とは、そういうものだ。天皇より他におこなうことはなく、天皇のみおこなうことができる特別な祭祀である。明治以後は、皇室祭祀令によって規定され、皇室祭祀令が廃止された戦後においても、それに准じて行われている。
  元旦の午前五時半に、黄色の束帯を着用して、宮中三殿の西側にある神嘉殿の南の庭に設けられた建物の中で、伊勢の内宮と外宮、すなわち皇大神宮と豊受大神宮に向かって拝礼した後に、四方の諸神を拝するように改められた。むろん寺院は一切対象外である。
  戦前は国家祭祀としておこなわれて四方節と呼ばれ、祝祭日の中の四大節の一つとされていたが、戦後は天皇家の私的な祭祀として、しかし往古のままに執りおこなわれている。天皇にとって、北極星・北斗七星は古来特別のものなのだ。
(『ヒルコ 棄てられた謎の神(増補新版)』河出書房新社 より)

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2013年4月 3日 (水)

「御霊信仰(ごりょうしんこう)」について

 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、日本独特の怨霊神への対応法のことである。
 理不尽な死、恨みが残る死となった者は「怨霊」になって、後々祟りや災いをもたらすと古来信じられて来た。ただ、その怨霊を手厚く祭れば、怨霊は守護の神に転化して、かえって幸いをもたらすと信じられた。これを朝廷が国家政策として初めて行なったのが平安初期のことだとされる。
 その年、都に疫病が大流行し、まさに猖獗をきわめた。上下を問わず死者は山為すありさまで、それが怨霊の祟りであるとされて恐怖が都を席巻(せっけん)した。
  そこで大々的におこなわれたのが御霊会(ごりょうえ)である。
  八六三(貞観五)年、神泉苑において、怨霊の祟りを鎮める祈祷が大掛かりに執りおこなわれた。御霊会が歴史的イベントとして公式の記録に登場する最初である。
  この御霊会は、早良親王をはじめとする六人の怨霊を鎮めるために行われた。これを六所(ろくしょ)御霊(ごりょう)という。
  御霊は、政治的に失脚し、かつ不遇の中に死んだ者が、生きている人に祟りなす怨霊のことであるが、とりわけ次の六人を六所御霊と呼んで特に畏れた。

  ▼崇道(すどう)天皇(早良親王)七八五年没。桓武天皇の弟。皇太子であったが、藤原種継暗殺事件に連座して、淡路へ流される途中乙訓寺で絶食して死去。
  ▼伊予親王  八〇七年没。桓武天皇の第三皇子で、母は藤原是公の娘吉子。大同二年(八〇六)、藤原仲成の陰謀により母とともに川原寺に幽閉され、服毒自殺。
  ▼藤原夫人(藤原吉子)  伊予親王の母。親王とともに自殺。
  ▼橘逸勢(たちばなのはやなり) 八四二年没。皇太子恒貞親王を伴健岑とともに擁立し、謀反を起こそうとした罪により捕縛。伊豆国配流となったが、途中遠江国板筑駅で病死。
  ▼文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ) 生没年不詳 筑前守の時、新羅人張宝高と交易を行い解任された。八四三年、新羅人と反乱を企てたとして伊豆に流罪。
  ▼藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ) 七四〇年没。大宰府に左遷されたことを怨み、弟の綱手とともに挙兵。藤原広嗣の乱。敗戦によって、弟ともども斬死。

  そこで朝廷は、神泉苑においてこれまでにない盛大な御霊会をおこなうこととした。当時の全国の国の数である六十六本の鉾を立てて、それを神泉苑の池に納めて厄払いとする。この催しが、発展して、かの祇園祭となる。京の最大のイベントである祇園・山鉾巡行は、神泉苑での怨霊祈祷がそもそもの出発であり由来である。祇園祭りは、正しくは祇園会というが、いわば御霊会の集大成なのである。京の町衆は年に一度、この祭りで怨霊の祟りを祓うのである。
  また、怨霊たちは御霊神社──上御霊神社(京都市上京区)・下御霊神社(京都市中京区)として祀られて、恒常的に鎮魂するものだ。もとは一つの神社であったが、平安京の鎮護のために上下それぞれに祀られるようになり、現在は先の六所御霊に、吉備真備と菅原道真を加えて八所御霊としている。(『怨霊の古代史』より)

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2012年10月29日 (月)

桓武天皇の漢風祭祀…封禅と郊祀

 天皇即位にあたって、必要な手続きは天武天皇によって定められたものである。すなわち践祚(せんそ)大嘗祭(だいじょうさい)をおこない、三種の神器を継承することで天皇となるものだ。
 しかし桓武天皇は、これをそのままおこなうだけではなく、史上初めてとなる祭祀をもおこなった。それが「郊祀(こうし)」である。
  郊祀とは、秦始皇帝に始まる最上位の皇帝祭祀である。文字通り都の郊外でおこなう祭祀であって、封禅(ほうぜん)の亞種である。
 封禅は皇帝(始皇帝が「天子(てんし)」に代わる尊号として創始)となるための一世一度の祭祀であるが、泰山(たいざん)まではるばる出向き、山頂及び山麓において皇帝一人でおこなうものをいう。
 「封(ほう)」は、泰山山頂に壇を造り天を祀り、「禅(ぜん)」は泰山の麓で地を祀るもので、合わせて「封禅」という。これによって「天命」を受けて天子となる。
 郊祀はこれを受け継ぎ、都の南の郊外に天を祀り(天壇(てんだん))、北の郊外に地を祀り(社禝(しゃしょく))、宗廟に祖先を祀る(宗廟(そうびょう))こととしたようだ。天壇は冬至の日に祀り、地壇は夏至の日に祀った。詳細を記した記録がないためそれぞれの次第は不明だが、とくに南郊祭祀が尊ばれ、後にはこれを指して郊祀というようになったようだ。あるいは、北郊は臣下を代理に立てておこない、南郊のみを皇帝自ら親祀した。
  北京に残る天壇は明・清時代に実際に使われたもので、郊祀を公開の場でおこない、天子として君臨する根拠を広く示すことを一つの目的ともしていた。
 わが国では、天壇に天神を祀り、地壇に地祇を祀り、宗廟に皇祖・祖神を祀った。
 ちなみに天皇家では現在、宇佐神宮を「第一の宗廟」としている。ということは、つまり皇祖神の第一であるという意味である。
 わが国では、郊祀は、桓武天皇が二度おこない、文徳天皇が一度おこなっている。他に公式の記録はない。
 なお、桓武天皇が郊祀をおこなった場所には注目しておく必要があるだろう。
 北河内の交野(かたの)である(現在の大阪府交野市)。
 交野は百済王(くだらのこにきし)一族の拠点であったことから、若き頃より深い関わりがあった。後に内侍所(ないしどころ)の尚侍(しょうし)(女官長)となる百済王明信(みょうしん)は、桓武天皇の初恋の女性であったとされる。
 その縁もあって、即位して後も交野に行幸することしばしばで、記録に見えるだけでも実に十数回に及ぶ。天皇行幸の回数は他に比較するところもない。
 目的は狩猟がほとんどであるが、「郊祀」のために二回行幸している。延暦四年十一月、延暦六年十一月、ともに冬至の日である。桓武天皇は、交野に天壇を設けて「天」を祀ったのである。場所は交野の柏原野とされるが、具体的にどの辺りかは判然しない。京都のほぼ真南になるはずである。
 ところで河内の交野は、ニギハヤヒが降臨したとされる場所である。ニギハヤヒは神武に国土と十種神宝を譲った千住神である。八咫鏡と八坂瓊勾玉をアマテラスから授かり、神武に受け渡すまで護持していたという来歴をもつ。その降臨地で桓武天皇は郊祀をおこなった。これは、ただの偶然ではないだろう。郊祀は「天神」を祀るものだ。この地で郊祀がおこなわれたということは、祀られた天神はニギハヤヒであったと考えるのが自然だろう。(『ツクヨミ・秘された神』より)

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2011年11月 8日 (火)

皇位継承の危機は去ったのか?

 日本国憲法、第二条に「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」とある。そして皇室典範、第一条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と。これに基づき、現在の皇位継承順位は決まっている。
 しかし、平成十八年に悠仁殿下ご誕生となるまでは、全国民を巻き込んでの“大問題”となっていたことは周知のとおりだ。
 敬宮愛子内親王のご誕生などもあって、皇室に慶事はそれなりに続くのだが、皇位継承者の終端世代は内親王、すなわち女子のみであった。しかし内親王はいずれ配偶者を得て降嫁する。つまり、皇室を去る運命にある。
 親王、すなわち男子皇族のみが皇室にとどまることができるのだが、その“男子”が終端世代に一人もいない。このまま時が過ぎると継承者がいなくなってしまうという危機的状況が目前に迫っていた。
  それを解決するために、皇室典範を改定して、男子のみでなく女子も皇位を継承できるようにしようという論議が起きた(二〇〇四年に当時の内閣総理大臣・小泉純一郎の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」設置)。四十一年ぶりの皇族男子、悠仁親王誕生により、皇太子徳仁親王の次の世代の皇位継承者が誕生したのである。
 これで女性天皇(女系ではない)の議論は一応立ち消えになっているのだが、皇統の危機的状況は何も変わっていないのだ。むしろ今こそ、あらためて冷静に検討されなければならないだろう。

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2011年10月16日 (日)

■天文博士・安倍晴明は、時の天皇に何を奏上したか。その本来の役目は?


 

 安倍晴明の最も重要な職務は「天文密奏」であった。

 つまり、天文博士である晴明は、天の異常を察し、それに基づいて地の変化、人の変化を読み解き、それを天皇に直接奏上する。これが天文密奏である。

 映画や漫画で(それ以前にも舞台や小説で)繰り返し描かれてきたために、すっかり「呪術師」のレッテルを貼られてしまったが、晴明の本来の姿はオカルティストではない。そういう意味では、晴明の本来の陰陽原理がいかなるものか、現在ではほとんど知られていないと言っても良い。いわゆる伝説の類ばかりが喧伝(けんでん)されて、実像はいよいよ見えなくなっている。

 実像を知る最良の方法は著書を繙(ひもと)くことであるが、唯一の著書『占事略決』は、彼一流の表現に満ちていて、なおかつ最小限の語彙にとどまっている。未知の他者に説明する必要がなかったためもあるだろうし、また勝手な解釈を拒絶するためもあったかも知れない。結果として本書を完全に理解できている人はおそらくきわめて稀であるだろう。彼の論理体系は、推理する以外に方法がない。

 なお、彼の編纂になると言われる『〓〓(ほき)内伝金烏玉兎集』は、陰陽道の聖典であるかのように扱われて来たが、後世の作というのがもはや一致した見方であろう。所載のいくつかについて俗説巷説の見られるのも、観点の明確さや一定の視点を失ったことに拠っているのではないか。おそらくは晴明の陰陽原理を継承しながらも、次第に形骸化し、正しい部分もあるが、歪曲されてしまった部分もある。晴明以後に発生した迷信俗信を取り込んで混合させた所為かもしれない。

 わが国独自の発展を遂げた陰陽道(おんみょうどう)すなわち日本風水は、陰陽五行本来の原理を踏まえ、かつわが国に連綿と伝えられた古神道の原理を融合させた時点を原点としている。そしておそらくは、天武天皇の手法も、晴明の手法も同じラインにあるだろう

 天武帝については、その指示のもとに開発された数々の事績がそれを示唆している。たとえば藤原京の設計、そして伊勢の神宮の遷宮システム、陰陽寮の設置、三種の神器の設定等々、驚くべき歴史的成果であり、かつそれらすべてがこの統合原理を示しているのも、いかにも示唆に満ちている。

 晴明については、初期の陰陽寮での取り組みと、後世の取り組みとの差異からも推測されるし、唯一の著書『占事略決』と、伝編纂の『〓〓(ほき)内伝金烏玉兎集』との差異からもやはり同じ答えに辿り着く。いわゆる「晴明伝説」の類は、実相を見えなくすることくらいにしか役に立たないと知るべきであるだろう。

 晴明の真の実力は、もっと現実的なところにあって、だからこそ畏怖されたと、私は理解している。彼の陰陽原理は超現実的な「占い」などではなく、天文地理の総合判断に裏付けられた、きわめて現実的な「予測」であった。そしてある部分では「予防」であり「回避」でもあっただろう。しかもそれらが国家的なレベルでの成果として結実しているならば、誰もその評価を疑うことはない。それこそは、政(まつりごと)の本質である。

 なかでも、地震は天文地理の重要課題である。

 晴明の密奏には、いくつかの最重要課題があった。まつりごとに多大な影響を与えかねない課題。10世紀という時代を考えれば、まだ「日蝕」や「流星」も重要な課題であったろう。しかも、晴明の生きた時代(9211005年)には、特別な天文現象が少なからず観測された。

 967年 大流星雨

 975年 皆既日蝕

 976年 火星大接近

 989年 ハレー彗星接近

 1002年 大流星雨

 これらは当然ながら、晴明の密奏のメイン・テーマになる。

 そしてこれらと無関係ではない「地震」も、その一つであったことは間違いない。(『日本風水』より)

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2010年12月18日 (土)

菊の御紋入り。皇太子殿下よりの賜りもの。

Dorayaki

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