カテゴリー「歴史」の49件の記事

2017年1月 9日 (月)

ドナルド・キーン インタビュー〈ある作家の死に託された日本のことども〉

Keene

三島由紀夫との出会いを中心に、日本との深く長い関わりについて私がインタビュー。
古い記事だが、歴史の一つの証言として記録する。

「ドナルド・キーン インタビュー〈ある作家の死に託された日本のことども〉」
全5p/週刊Qtai1983.11/10

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2016年11月11日 (金)

「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」

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2016年7月21日 (木)

日本語の起源

日本語(大和言葉=ヤマトコトバ)の起源は、いまだによくわかっていない。
これまで多くの研究者が様々な説を唱えてきたが、いずれも定説となるに至っていないのが現状だ。
中国語からは漢字と漢熟語を数多く輸入したが、文法も発音もまったく違うため、完全に別の言語である。
韓国語は新羅語の流れであるが、これもまったく似ていない。中国語のように単語や文字を輸入した形跡もほとんどない。

高句麗語との共通を言う説もあるが、高句麗語自体がほとんど残っていないため、比較研究自体が不可能だ。

朝鮮半島については、奈良から平安時代初頭頃には上流階級はゆっくりはなせばそのまま言葉が通じたというまことしやかな説が一部にあるが、もちろんデマゴギーだ。そんな記録はどこにもないし、そもそもヤマトコトバと古代朝鮮語はまったく異なる。

ただ、百済国が存在したわずかな時代(約100年間)に、百済出身の官人が多数採用されていたことで、百済人同士の会話は当然百済語でおこなうことがあっただろう。公用語はヤマトコトバであっても、それとは別のコミュニケーションもある。
ただし、百済国はまもなく消滅して、一度は日本の支援によって再興するが、それも消滅し、朝鮮半島にはほとんど痕跡は残っていない。百済の文化や人材は多くが日本に移された。

ちなみに、新羅系の言語は言語学的には「閉音節」であって、発音の末尾が子音で終わる。
これに対して百済語(おそらくは高句麗語も)、そしてヤマトコトバも「開音節」であって、すなわち末尾が母音で終わるという特性がある。

日本語の由来を論じることは、すなわち日本および日本人の成り立ちを論じることである。
むろん言語だけで民族を論じることはできないが、そこに大きな手がかりがあることは言うまでもない。言語と民族とは不可分の関係にある。

なお、ヤマトコトバとは、奈良時代以前からある日本の固有の言葉、すなわち、仏教渡来以前からこの国で通用している言葉と理解して誤りはないだろう。「万葉集」や「古事記」を記しているのは万葉仮名という「文字」であるが、これは「音」だけを表すために漢字を借字して記したものだ。したがって文字は借り物であるが、「音」はまさしくヤマトコトバである。そしてそれは、時間経過による変遷はあるものの、現在私たち日本人が使っている日本語と本質的に同じものである。

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2016年6月29日 (水)

神社の社格を表す用語「一宮(いちのみや)」

全国の神社の「社格」を表す用語には何種類かあるが、最も古いのは「一宮」であろう。
平安時代初期には用いられていたと考えられるが、公式のものではなく、民間で呼び習わされたものに始まる。
それだけに、後の官国幣社制度などと比べると一貫性には乏しい。
国によって、あるいは時代によって、そうなった“基準”がまちまちであるから、同じ一宮であっても大社小社が混在しているのが実情だ。

ただ、それが“民意”であればこそ、“官意”でないところで決まったという意義は深いと私は考えている。
たとえば、最も古くから信仰されている神社だから一宮と呼ばれるようになったというなら、それはまさに相応しいというものだ。
あるいは、その時点(古代末期)で、最も多くの人々が参詣する神社だから一宮と呼んだというのも正しいと思う。
つまり、“基準”はいくつかあっても良いのだ。
神社は、数学ではない、
だから、きれいに割り切れるものでもない。
それぞれの国で、それぞれの理由で、ここが一宮だと決められてきたものならば、それゆえにこそ尊重に値するのだと私は考えている。
明治に入ってから定められた官国幣社制度にしても、おおもとは一宮制に基づいている。あるいは、一宮の信用を利用して作られた新制度であると言っても誤りではないだろう。

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★写真は駿河国一宮=富士山本宮浅間大社

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2016年5月30日 (月)

柳田国男の「日本人」と、南方熊楠の「縄文人」

 柳田は『山人考』で、縄文人と弥生人の弁別峻拒をおこなった。すなわち、縄文人を「山人」と呼び、渡来した弥生人を「平地人」とした。さらに注目すべきは、平地人を「日本人」と規定したことであって、そこから「日本」も始まったと主張した。
 もしもわが国の民俗学がここから展開発展したとするなら、おそらくは今とはかなり異なる地平に立ち至っていると思われるのだが、残念ながら柳田はこの説を継承させず、『遠野物語』や『山の人生』などで見られるように、うやむやにしてしまった。
 これについて谷川健一氏は南方熊楠の批判によると指摘しているが(『白鳥伝説』)、それは理由の一つに過ぎないだろう。実際に熊楠の批判めいた論述を見ても、論陣は脆弱で、決して柳田が持論を捨てなければならないほどの説得性はない。熊楠はもっぱら「縄文人」の概念に拘泥しており、その血脈はその後も継承されて脈々と生き続けているのだと指摘している。その行間には、熊楠自身が縄文人の血脈を受け継いでいて、それが傍証でもあるかのように仄めかしている。当人の存在が論拠であっても、とくに私は不都合とは思わないが、万人を説得するには不適当であるかもしれない。谷川氏が穿ちすぎたのも熊楠への強い共感が前提となっているように思われる。
 柳田は『山人考』で発した「日本および日本人概念」を捨てる必要はなかったのだ。その後の考古学や民俗学の成果が教えてくれたように、縄文から弥生に切り替わったのは、まさに「人種」が切り替わったほどの変化であって、また現代に続く弥生文化・弥生人はそれ以前の縄文文化・縄文人とは画然している。顔貌も体型も、骨格そのものさえも大きく異なるのは当然として、稲作主体となったことによる食生活の変化だけでは理由にならない大きな文化的変化である。この事実を明瞭に解くのは人種・民族の入れ替わり以外にありえない。そして新たな人種・民族が突然この地に誕生することはないのであって、他の何処からか移り来る以外にありえない。
 そうであるならば、当初に柳田が指摘したように、弥生人こそは海の向こうからやってきた人々であって、彼らによって稲作は持ち込まれ、それまでこの地で暮らしていた縄文人は駆逐されたのだ。東へ追いやられた縄文人は蝦夷と呼ばれ、西へ追いやられた縄文人は熊襲や琉球になった。──しかしいわゆる「まつろわぬ民」、すなわち従うことのなかった人々は東西の辺境へと追われたが、多くの人々は恭順し、入り交じって暮らす道を選んだ。
 そして中央部を制圧した弥生人が日本人となり、彼らが建国した国が日本国(やまとのくに)となったのだ。その国王をオオキミ、ミカド、スメラミコト等々と様々に美称尊称することになる。そしてここに「日本建国」が成った。現日本人である私たちのほとんどは、その子孫である。
 それでも縄文人の一部は都市部に入り交じることもなく畿内各地にも残留して、土蜘蛛や隼人等々と称呼されて隷属した。南方熊楠が風貌体型ともに縄文人のそれであることはおそらく当人の言う通りで、紀伊熊野地域には辺境であるが故に縄文人の血脈が本来に近いままに存続していたのだろう。
「ご承知の通り紀州の田辺より志摩の鳥羽辺までを熊野と申し、『太平記』などを読んでもわかるように、日本国内でありながら熊野者といえば人間でないように申した僻地である。」と熊楠は『履歴書』で書き記している。
 その後の民俗学のフィールドワークでもそう考えられる風貌・体型の人たちが少なからず現存することがわかっている。地祇(国津神)系の氏族は、そうして残留した縄文人の血脈であるだろう。
 民俗学では「常民」と呼ぶことによって一括した概念設定をしているが、常民にも様々あって、日本列島の多様な環境(風土・気候など)を考えればそう簡単でないのは自明である。仏教伝来以前の原始信仰を見ても、海人の信仰、常民の信仰、山人の信仰それぞれが複雑に絡み合って発展している。神道の概念が確定するのは、神社の発生と定着を待たなければならない。原始道教を取り込み継承した陰陽道とも不可分の関係である。日本および日本人の概念とは、こうした精神風土の上に構築されたものだ。(『ニギハヤヒ』より)

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2016年2月25日 (木)

よみがえり

 よみがえりとは、漢字では「蘇り」「甦り」と書きますが、やまとことばでは「黄泉返り」「夜見帰り」ということで、「死の国から生きて返る」ことです。

 イザナギは一度は死の国である黄泉へ足を踏み入れました。

 しかし「よもつへぐい(黄泉の国の食物を口にすること)」をすることなく、取って返してよみがえりを果たすのです。追いかけて来る鬼を桃の力で封じます。そして穢れを禊ぎによって洗い落とします。(『神道と風水』より)

続きを読む "よみがえり"

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2016年2月19日 (金)

古神道こそは神社神道の本質

「古神道」について誤解を糺(ただ)しておかなければなりません。
  現在一般に古神道というと「復古(ふっこ)神道」のことをいうようになっています。しかし「復古神道」は、本来の「古神道」ではありません。幕末から明治初期に誕生した、いわば「新しい神道」です。西洋哲学や近代宗教学などを踏まえて、維新運動に連動する形で再整備されたものです。それまでのおおよそ一千年間で全国的に蔓延した神仏習合を廃して(神仏分離)、それ以前の神道の古形に返そうというものです。
 とくに本居宣長を始めとする国学を基盤とした信仰体系・思想体系は、多くの外来宗教を踏まえて「復古」志向で再整備されました。
 また、明治政府によって一種の国教と定められたことで、信仰であるよりも儀礼として体系化・組織化されました(同時代に、いわゆる「教派神道」が十三派生まれて、復古神道系とされていますが、これらのほとんどはいずれも個人の教祖を戴く教団であって、神道とは本質的に別のもの、似て非なるものです。神道に「生身(なまみ)の教祖」は本来的に存在し得ないからです)。
 明治政府の政策によって古来の信仰のエッセンスはかえって見えにくくなり、あたかも宗教や信仰ではないかのようにもなりつつあります。しかしこれは本来の神道の姿ではありません。むしろ儀礼等は後から生まれたもので、まずは信仰心があったればこそのものでしょう。畏怖心や崇敬心から思わず手を合わせる、あるいは拝礼する、その素朴で真摯な心情、これが原点でしょう。
 その上で、より厳粛に、より崇敬心を表現するにはどのようにすれば良いかと工夫して、そうして整備されて来たのが儀礼です。ですから、まず儀礼があって、崇敬心は二の次というなら本末転倒なのです。神社や聖域を拝する際には、参詣の手順や形が大事なのではなくて、まずは気持ちなのです。その上で、より厳粛な作法もあればあるに越したことはないというものなのです。

 六世紀に仏教が伝来し、神道は大きく変わりました。仏教に対抗するために、たとえば社殿を建築し、神像を造り、有職故実を整備し、それまでの信仰形態とは大きく様変わりします。
 現在私たちが「神道」として認識しているのはこれ以後の、いわば「神社神道」なのです。
 しかもその後約一千年間に亘って、右に述べたように神道と仏教は「習合(混淆)」が進み、異なる宗教が混じり合うという奇怪な状態になります。 
 このような〝変身〟以前の神道、つまり仏教伝来以前の神道が「古神道」です。(略)古神道は現在の神社神道にも受け継がれており、いわば「本質」であると言えます。(『神道と風水』まえがき より)

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2015年7月19日 (日)

藤ノ木古墳の被葬者は誰か?

 

 飛鳥・藤ノ木古墳の発掘調査で判明した画期的な考古学的発見を紹介しよう。

「藤ノ木古墳 花粉が語る被葬者像 穴穂部皇子と宅部皇子か──供花に夏のベニバナ、6月暗殺符合

 金銅製の冠など豪華な副葬品の発見で知られる奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(国史跡)の石棺に納められた2人の被葬者が、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部(あなほべの)皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部(やかべの)皇子の可能性が極めて高いことが、石棺から出土した大量のベニバナ花粉の研究で分かった。夏に咲くベニバナが死者を弔う供花として納められたとみられ、日本書紀が記す587年6月の暗殺時期と一致した。石棺に残されたミクロの花粉が、被葬者像を絞り込む興味深い成果として注目される。
 同古墳は直径約50メートルの円墳で、石棺は盗掘を受けておらず、昭和63年の発掘調査で金銅製の靴やガラス玉で装飾された大刀、2人の被葬者の人骨などが埋葬当時の状態で見つかった。
 石棺内からは、大量のベニバナの花粉を検出。当初は被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡ともみられていたが、金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)の研究で、染料にすると花粉はほとんど残らないことが判明。石棺には、ベニバナの生花が供花として納められている可能性があることが分かった。
 ドライフラワーが入れられた可能性も残されているが、生花だったとすれば被葬者は夏に埋葬されたことが確実で、昭和63年の同古墳調査を担当した前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は、被葬者は587年6月7日に殺害された穴穂部皇子(生年不明)と、翌日に殺された宅部皇子(同)と推定する。
 前園教授は考古学的見地からも、副葬品の金銅製靴は本来は六角形の文様で統一するところを、一部が五角形になるなど製作ミスがある▽石棺の加工が粗い▽遺体の骨同士が結合したまま出土しており、死後間もないころの埋葬──などの点を列挙。「被葬者は不測の事態で死んだため、古墳や副葬品を急遽(きゅうきょ)つくった可能性が高く、2人の皇子が死んだ状況と矛盾はない」と指摘している。」(二〇〇八年十一月一日 産経新聞大阪朝刊 総合一面)

 藤ノ木古墳は、法隆寺のすぐ裏手(西側)三〇〇メートルほどのところにある。昭和六十三年に、橿原考古学研究所がファイバースコープにより石棺内調査を実施。これによって奇跡的にも未盗掘であったと判明した。それだけに、タイムマシーンのように千数百年の時を超えて、埋葬時の数々の「情報」が現代に届けられたことになる。
 石棺内に納められていた青銅鏡や大刀など、豪華な副葬品の数々は、平成十六年に国宝に指定。石棺の周囲には、象や鳳凰などを透かし彫りにした馬具も見出されている。
 石棺に納められている人骨から、被葬者は一人が二十歳前後の男性、もう一人は二十~四十歳の男性とされる。つまり、男性二人が一緒に埋葬されているということで、これもきわめて異例のことだ。この点からも、何か特別な事情があったものと判断せざるを得ない。(『怨霊の古代史』河出書房新社 より)

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2015年6月 6日 (土)

諏訪と物部

 長野県の守屋社は、諏訪大社本宮との関わりがあるとも言われているが、真相は不明だ。諏訪大社本宮は拝殿のみで本殿を持たない古式の神社として知られている。奈良県の大神神社や埼玉県の金鑽神社と同様、背後の山そのものを御神体として祀っている。大神神社は三輪山、金鑽神社は御室ヶ嶽(金華山)であるが、諏訪大社本宮の神体山は驚くべきことに「守屋山」という(神社側では宮山とのみ称している)。
 また、諏訪の社家は大祝と神長とがあり、神長官は守矢氏であって、歴代社家である。このような事実関係から、上伊那郡高遠町の守屋社は諏訪の奥宮という説もあるが、残念ながら地元では蔑(ないがし)ろにされている。地元の人からの伝聞ではあるが、守屋社に雨乞いをし、叶わぬ時には石祠を転がり落としたり、はなはだしきは小便をかけたりしたという。また、ここには諏訪地方の神社の特徴である「御柱(おんばしら)」がない。どんな神社にも御柱を建ててしまう諏訪人の気質を考えると、たとえ小祠といえども関わり深い神社に御柱がないのはむしろ違和感を感じさせる。
 諏訪大社の創建は物部守屋敗死よりはるかに古いのは言うまでもないが、おそらくは石上系の物部氏族が神主として加わり、その氏祖を祀ったことによると思われる。諏訪神・タケミナカタは怨霊神であるので、相通ずる中央への反骨心を守屋の怨霊に体現させたのかもしれない。
 なお、神社ではないが、長野県を代表する寺院の善光寺も物部守屋に由縁の伝承がある。本堂は一〇八本の柱によって支えられているのだが、すべて円柱の中で唯一大黒柱のみが角柱で、これは別名「守屋柱」と呼ばれている。柱の下には物部守屋の首が埋設されていると伝えられる。また、善光寺の本尊は、そもそも物部守屋が蘇我馬子の寺を破壊して、仏像を難波の堀江に棄てたものを(本書十九頁参照)本田善光なる者が拾い上げて持ち帰ったのに始まると伝えられる。──ただ、善光寺は十一回も全焼しているので、どこまで事実か判然しないが、少なくとも長野という地域が物部と何らかの関わりを持っていたであろうことは教えてくれる。(『怨霊の古代史』河出書房新社刊 より)

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2015年5月21日 (木)

蘇我氏の出自を隠した日本書紀

 乙巳の変に関する記述については、明らかに改竄の痕跡が見られるというのは定説になっている。とはいうものの、『日本書紀』という歴史書が全編に亘って改竄されているというわけではないのはもちろんだ。必要もないのに改竄するはずもなく、書紀が最古かつ最重要の文献の一つであることは論をまたない。
 それでは、乙巳の変に関しては何故改竄が必要であったのか。
『日本書紀』の編纂事業には長い年月を要している。その間、何人もの天皇や高位高官がこれに関与している。とすれば、当然のこととして、その人々の意向がそれなりに反映されることになる。
『日本書紀』が成立したのは七二〇年(編纂開始は六八一年)。この時の政治のトップは藤原不比等である。右大臣となって十二年、誰も不比等に逆らう者はいない、天皇を除けば実質的な独裁者であった。この人物がすなわち、最終検閲者ということになる。
『日本書紀』の改竄問題はその文体から解き明かされた。かつては純粋の漢文体であると考えられていたのだが、中には、純粋の漢文の語法や語彙とは言えないものが散見されると判明した。本来漢文にはありえない語法や語彙、すなわち日本風の語法や語彙が一部にみられるのだ。日本風の語法や語彙、これを「倭習」と呼ぶのだが、とくに乙巳の変についての記述は倭習が頻出している。編纂当初の原文は、おそらくは史部(ふひとべ)として起用した渡来系氏族の者によって書かれた純粋の漢文であるが、それから実に四十年近くも後に完成することになったため、加筆や修正には日本人の手が加わったと考えられる。
 不比等にとって、至上命題は「藤原氏の氏祖である中臣鎌足の美化」「乙巳の変・入鹿殺害の正当化」である。そしてそのために対抗措置・前提となるのは「蘇我氏を貶めること」である。
 蘇我氏の評価が下がれば下がるほど、その反動として中臣鎌足のおこなった行為は「英雄的行動」となる。
 これがもし、蘇我氏に正義があったとすれば、入鹿殺害は国家的大犯罪である。乙巳の変に大義はあった、中大兄皇子や中臣鎌足たちに正義はあったと、歴史書には記されていなければならない。鎌足の子息である不比等が改竄し、それを時の天皇である元明天皇が承認した。元明帝は、天智天皇(中大兄皇子)の皇女である。
(『怨霊の古代史』河出書房 より)

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