カテゴリー「氏神」の18件の記事

2016年6月29日 (水)

神社の社格を表す用語「一宮(いちのみや)」

全国の神社の「社格」を表す用語には何種類かあるが、最も古いのは「一宮」であろう。
平安時代初期には用いられていたと考えられるが、公式のものではなく、民間で呼び習わされたものに始まる。
それだけに、後の官国幣社制度などと比べると一貫性には乏しい。
国によって、あるいは時代によって、そうなった“基準”がまちまちであるから、同じ一宮であっても大社小社が混在しているのが実情だ。

ただ、それが“民意”であればこそ、“官意”でないところで決まったという意義は深いと私は考えている。
たとえば、最も古くから信仰されている神社だから一宮と呼ばれるようになったというなら、それはまさに相応しいというものだ。
あるいは、その時点(古代末期)で、最も多くの人々が参詣する神社だから一宮と呼んだというのも正しいと思う。
つまり、“基準”はいくつかあっても良いのだ。
神社は、数学ではない、
だから、きれいに割り切れるものでもない。
それぞれの国で、それぞれの理由で、ここが一宮だと決められてきたものならば、それゆえにこそ尊重に値するのだと私は考えている。
明治に入ってから定められた官国幣社制度にしても、おおもとは一宮制に基づいている。あるいは、一宮の信用を利用して作られた新制度であると言っても誤りではないだろう。

Fujisanhonguhsengen

★写真は駿河国一宮=富士山本宮浅間大社

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2015年10月20日 (火)

「氏神」とは何か?

氏神とは、読んで字の如し、「氏の神」ですから、本来的には「氏族一族の祖先神・守護神」のことです。

たとえば藤原氏を例に採ると、祖先神は天兒屋根命(アメノコヤネノミコト)と比賣神(ヒメガミ)、守護神は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)と經津主命(フツヌシノミコト)です。これら四神が氏神であり、それらの四神を祀った神社である春日大社が氏神社ということです。   

ところが時代がくだるにつれて、その土地を守る産土神や鎮守神と氏神とが混同されるようになりました。
現在一般に、「氏神/氏子」と言っているのは、正しくは「地域の産土神」もしくは「地域の鎮守神」のことであり、その氏子とは「祭りに参加する地域住民」のことです。地縁でつながる人々と地縁の神であり、血縁ではありません。
つまり、本来の意味での「氏神/氏子」ではないということになります。
個人的な見解としては、地縁氏神については他の言葉を使うべきであると考えています。

これらの「地域の産土・鎮守神」が、そのまま氏神になっている人もいますが、現実的には少数です。
たとえば、奈良市春日野町に居住している藤原さんという人がいるなら、地域の鎮守神である春日大社がそのまま氏神でもあります。
しかしそういう人は少数でしょう。

したがって、あなたの本来の氏神は、自分の血統がどの氏族の流れを汲んでいるのかで判明します。
古い由緒をもつ氏族であれば、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』で祖先神を確認することができます。『新撰姓氏録』とは815年に編纂された古代氏族名鑑で、現在の日本人の源流となっている氏族1182氏が収録されており、その祖先・祖神を明記しています。
──それが、氏の神、です。(この項、問い合わせが多いため再録)参考『氏神事典』河出書房新社

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2015年6月 6日 (土)

諏訪と物部

 長野県の守屋社は、諏訪大社本宮との関わりがあるとも言われているが、真相は不明だ。諏訪大社本宮は拝殿のみで本殿を持たない古式の神社として知られている。奈良県の大神神社や埼玉県の金鑽神社と同様、背後の山そのものを御神体として祀っている。大神神社は三輪山、金鑽神社は御室ヶ嶽(金華山)であるが、諏訪大社本宮の神体山は驚くべきことに「守屋山」という(神社側では宮山とのみ称している)。
 また、諏訪の社家は大祝と神長とがあり、神長官は守矢氏であって、歴代社家である。このような事実関係から、上伊那郡高遠町の守屋社は諏訪の奥宮という説もあるが、残念ながら地元では蔑(ないがし)ろにされている。地元の人からの伝聞ではあるが、守屋社に雨乞いをし、叶わぬ時には石祠を転がり落としたり、はなはだしきは小便をかけたりしたという。また、ここには諏訪地方の神社の特徴である「御柱(おんばしら)」がない。どんな神社にも御柱を建ててしまう諏訪人の気質を考えると、たとえ小祠といえども関わり深い神社に御柱がないのはむしろ違和感を感じさせる。
 諏訪大社の創建は物部守屋敗死よりはるかに古いのは言うまでもないが、おそらくは石上系の物部氏族が神主として加わり、その氏祖を祀ったことによると思われる。諏訪神・タケミナカタは怨霊神であるので、相通ずる中央への反骨心を守屋の怨霊に体現させたのかもしれない。
 なお、神社ではないが、長野県を代表する寺院の善光寺も物部守屋に由縁の伝承がある。本堂は一〇八本の柱によって支えられているのだが、すべて円柱の中で唯一大黒柱のみが角柱で、これは別名「守屋柱」と呼ばれている。柱の下には物部守屋の首が埋設されていると伝えられる。また、善光寺の本尊は、そもそも物部守屋が蘇我馬子の寺を破壊して、仏像を難波の堀江に棄てたものを(本書十九頁参照)本田善光なる者が拾い上げて持ち帰ったのに始まると伝えられる。──ただ、善光寺は十一回も全焼しているので、どこまで事実か判然しないが、少なくとも長野という地域が物部と何らかの関わりを持っていたであろうことは教えてくれる。(『怨霊の古代史』河出書房新社刊 より)

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2011年10月27日 (木)

記・紀の神々は「実在」した、すなわち「歴史上の人物」である。


 

 日本の根元の神を問われれば、多くはアメノミナカヌシ(天御中主神)やカミムスヒ(神産巣日神)などを挙げるかもしれない。それは日本神話の始源に登場する独り神、つまり無性別神である。

 独り神であるがゆえに、かれらは「神生み」をおこなわない。

 その役割は、イザナギ・イザナミという夫婦神の誕生まで待たなければならない。

 そして、この夫婦神から私たちの日本は始まるのだ。すなわち、それが私たちの「根元の神」であり「祖先神」である。

 しかし私は、この定義に敢えて異を唱えて、「根元の神」という概念を「系譜の始まり」としてとらえたい。ただ、何をもって「根元」というかは人それぞれであって、まして神を指し示すとなれば、異論は少なくないだろう。

 そこで私は、ここに一つの提案をおこなおう。

「実在した神」すなわち、歴史上の特定の「人物」をもって比定できる神をもって根元ととらえたい。

 イザナギはイザナミとまぐわうことによって多くの神々を生むのだが、最後に「火の神・カグツチ」を生んだために、イザナミはホトを焼かれて死んでしまう。

 その後、イザナギは黄泉の国へイザナミに会いに行くのだが、その再会と再度の離別の経緯はさておいて、逃げ帰ったイザナギはアワギハラで禊して身を清める。──その際に、とくに尊い神を生むのだが、私はそれを「根元神」とよびたい。

 これ以前の神は「観念としての神」であり、一種の「精霊神」であろう。

 イザナギ・イザナミ二神はすべての国土と、それを統治する多くの神々を生むが、この二神を実在とするのは無理だろう。国生み・神生みのすべての源を一組の夫婦神ということにしたのは、思想である。神話創造の一つの典型が、ここにある。

 しかしその後の展開は、まったく次元が異なる。その後の日本神話は、単なる空想物語ではなく、一種の「叙事詩」であると私はとらえている。

 したがって、神話叙述の合理的な解釈をおこなえば、古代における事実関係等々が浮かび上がってくるはずである。

 その解釈の鍵になるのが古代人たちの「思想」だ。

 彼らが神というものをどうとらえていて、いかなる理由があれば神と認めたのか。天つ神・国つ神という「神の区別」はいかなる理由によってなされたのか。それによって神話の中の神々の「誕生の所以」が判明し、「神話の意味」もおのずから明らかになるだろう。

 神道は、すべての人が死しては神になるという思想である。つまり私の先祖もあなたの先祖も誰もが皆、代々死しては神となって祀られているということだ。

 この思想は古来、日本人の民族思想として貫かれてきたものだ。

 中世から戦国期にかけては、一部の人々が仏教に帰依するものの、依然として日本民族の基軸思想は神道(随神道、かむながらのみち)にあった。その証左が全国にくまなく鎮座する神社である。

 ただ、例外は江戸期の一六六四年から明治維新までの二百年余である。この間の数代が、死しても神になれなかった。というのも、周知のように総人口の九割以上が幕府によって檀家制度・寺請制度を強制されたため、死すればホトケになるものとされたからである。

 しかし明治五年、神仏分離令の発布により再び古式に復することとなる。

 

 こうして継承されて来た神道の思想によれば、記・紀の神々も同様に、私たちの祖先であって、死して後に神として祀られたと考えるのが当然というものだろう。

 もしそれを「観念上の神」とするなら、かえって私たちの血脈をそこで途絶えさせることになる。

 私たちは祖先を敬うという民族気質・民族文化を保有しており、いつの時代においてもそうであったはずである。もちろん古代においても祖先を敬った。その祖先とは観念ではなく、文字通り血脈の祖先である。私たちの血脈は、ある時突然発生したはずもなく、もちろん観念から産まれたわけではなく、当然ながらどこまでも続く血脈である。

 そして、この思想を大前提とすることによって、神話の中に少なくない系譜不詳の神々もその姿がよりはっきりと見えてくることになる。ヒルコはさしずめ、その第一番手であろう。天神でありながら流され棄てられた神とは誰なのか。

 神々は実在したという前提から考えると、日本神話の中の多くの真相が見えてくる。

 たとえばスサノヲの降臨伝承も、解き明かすための突破口がここにある。スサノヲは新羅の曽尸茂梨に降臨したが、その地に留まることを欲せず、すぐに船を仕立てて出雲へ渡ったと記されている。

 この伝承をもって、スサノヲは新羅人であって、それがヤマトへ渡って武力統一したという解釈が横行している。しかしはたしてそうだろうか。スサノヲが実在した人物であると考えれば、新羅へは何処からかやってきて、一時的に滞留したが、新羅という土地・人を好まず、すぐに通過して日本へ来たと解釈するのが理にかなっているだろう。

(『ヒルコ』河出書房新社刊 第一章より抜粋)


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2011年4月11日 (月)

小野さんの氏神

 小野一族は多くの文人・官人を輩出し、歴史にその名をとどめています。遣隋使として知られる小野妹子や遣唐使の小野石根、また遣唐副使の小野篁なども歴史の教科書には必ず登場する人物です。また三蹟の一人として知られる小野道風は篁の孫、六歌仙の一人としても「絶世の美女」としてもあまりにも有名な小野小町は、篁の曾孫です。
 その小野さんの氏神は、滋賀県大津市の小野神社です。すでに延喜式の神名帳に「滋賀郡大三座の内小野神社二座、名神大社」とあるほどの古社です。
 小野神社の祭神は、天足彦国押人命と米餠搗大使主命の二神。天足彦國押人命は、第五代孝昭天皇の第一皇子であり、小野一族の先祖です。また餅および菓子の匠・司の始祖ともされています。米餠搗大使主命は、それから七代目にあたります。
 天足彦国押人命は、孝昭天皇と尾張国の連の娘・余曽多木比命との間に生れた第一皇子で、春日、大宅、栗田、小野、栃木、大阪、安濃、多岐、羽栗、都怒山、伊勢、飯南、一志、近江の国造の祖であると『古事記』に記されています。 
 すなわち、大和朝廷成立以前に、滋賀、京都、大阪、奈良、三重、愛知に至る地域を支配していた氏族であったということです。
 全国各地の小野という地名や、小野という姓氏の発生地とされています。
 なお境内に、小野篁、小野道風、小野妹子をそれぞれ祭神として祀る神社もあります。
 東京の下谷にも、小野篁を祀る小野照崎神社があります。
 小野篁は、平安初期の学者、歌人として知られていますが、官人としても大きな役割を果たしています。下野国へ赴任した際には、わが国で最初の学校となった足利学校を創立しています。「令義解」を撰し、また「経国集」「和漢朗詠集」「扶桑集」「本朝文粋」等を残しています。
 百人一首「わだの原、八十嶋かけて、漕ぎいでぬと、人には告げよ、海士のつり船」の詠み人であり、学問の神として広く尊崇されています。(以下、略)
(『氏神事典』河出書房新社 より)

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2011年3月28日 (月)

★北向きの鹿島神宮は何を示唆するか

「鹿島神宮の神宝は「十握剣(とつかのつるぎ)」である。なんと、271㎝もの長さの直刀で、茨城県で唯一の国宝に指定されている。宝物館で常時展示されているので誰でも見ることができる。十握剣は、初めて見る者を必ず瞠目させ圧倒する。
 三種の神器の一つである草薙剣は熱田神宮の本殿に厳重に納められていてもちろん一般に見ることはできない。その代用とされる宮中の神器も同様である。須佐之男命がヤマタノオロチを退治した際にその尾の中から獲たとされるものである。
 そしてその尾を切り裂いた、つまりヤマタノオロチを退治した須佐之男命の愛用の剣こそは十握剣である。鹿島神宮のものがオリジナルか否かは不明であるが(石上神宮の七支刀がそれであるとも云われる)、工芸品としても第一級のものであるのは国宝として指定されていることでも明らかだ。
 しかし、ヤマタノオロチの体内から出てきたものが三種の神器となっていて、須佐之男命が用いたものがここにあるのだとすれば。これは本末転倒ではないだろうか。
 そしてなによりもここ鹿島神宮の神宝となっているのが謎めいている。鹿島神宮は、藤原氏の氏神なのである。
 奈良時代この方、日本の実質的な支配者であるとも言われる藤原氏。
 その原点は、日本人なら誰もが知っている歴史的な政変「大化改新」で鮮烈なデビューを飾った中臣鎌足(なかとみのかまたり)である。一族の始祖である鎌足が、中大兄皇子に取り入って大化改新で活躍したことに始まる。
 天智8年(669)に藤原姓を賜り、以後天皇の外戚ともなり、一族で朝廷の上層部を占有し続ける。奈良、平安はもちろんだが、明治以降も権力の中枢にいた。近衛、九条、一条、冷泉なども藤原一族である。氏神社として奈良に春日大社を造営し、平城京における神道祭祀をも独占した。
 中臣家は常陸鹿島の出自で、鹿島神宮が元々の氏神である。十握剣は大化改新で鎌足が用いた剣ではないかというまことしやかな説もあるが、まんざら根拠がない訳でもない。
 もしこの剣で、蘇我入鹿の首を刎ねたのであれば、ヤマタノオロチは蘇我入鹿、または蘇我氏という仮説も成り立つ。入鹿の血痕が検出できて、DNA鑑定できたらおもしろい。
 鎌足は大化改新で突然歴史の表舞台に登場するが、辺境の地・鹿島を中央につなげる糸が見当たらない。
 鹿島神宮の分祀による鹿島神社は全国で918社に上る。 
 鹿島神宮は、神社としてはきわめて珍しいことに真北を向いている。神社は通常風水によって「子坐午向」に造られる。したがって真南または真東を向いているもので、その理由が太陽信仰にあることは明白だ。神道に言うところの「八百万の神々」は、そこに根源がある。太陽がコアとなっていればこそ、いわゆる「自然崇拝」や「精霊信仰」が成立する。地上のすべての生きとし生けるものは太陽の恵みなくしては存立しない。だからアマテラスオオミカミは太陽神であり、神社の圧倒的多数がアマテラスを祀っている。
 しかも、神社のほとんどが本殿に神の依り代として「円形の鏡」を置いている。正円の鏡は、その形はもちろん、輝きという意味でも太陽を模している。つまり「アマテラス=鏡=太陽」という構図が成立するという訳だ。
 しかし「北向きの神社」はきわめて少数だ。全国に八万社以上ある神社の中でおそらく百社に満たないのではないだろうか。……(以下、略)」(『日本風水』木戸出版 より)

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2011年3月 8日 (火)

加藤さんの氏神

「源頼義に仕えた藤原景道が、加賀介に任じられました。
 これを栄誉として、「加賀の藤原」、すなわち「加藤」と名乗ったのが始まりです。全国の加藤さんのご先祖です。
 加藤清正も加藤嘉明も、皆さんここから発しています。
 当時の官職は、国司を「守」と称して、「介」はその次、ナンバー2になります。つまり加賀国の国司の次官ですね。ただ、「守」は現地に赴任しないのが通例で、「介」は実質的なトップです。
 景道は、斎藤氏と同族で、利仁の流れを汲む血統です。したがって加賀の地は、利仁以来の藤原の本貫地ですから、その介となるのはさぞ誇らしいことであったのではないでしょうか。
 そんな由縁から、加賀一宮である白山比咩神社は、加藤氏始祖にとって特別な思いがあったと思われます。
 遠祖・藤原利仁は敦賀を拠点としていましたから、越前一宮・気比神宮に特にゆかりがあります。
 したがって、加藤氏はこの二つの一宮に由縁します。
 景道の子孫を称する加藤清正は、日本の歴史上「最も有名な加藤さん」かもしれません。
「虎退治」でも知られますが、その武名は高く、信長・秀吉・家康のもとで多大な功績を挙げて、一代で大大名にまで出世します。
 肥前熊本藩の初代藩主として尊崇され、没後は加藤神社に祭神として祀られています。
 後世、加藤神社はハワイに分祀建立され(明治四四年)、さらに朝鮮・京城府(現・ソウル)にも分祀建立されました(大正三年)。
 分祀が国外のみというのは不思議な感じがするかもしれませんが、清正の徳を慕う人たちの意志が結実したものです(京城府の加藤神社は、第二次大戦後、残念ながら廃祀される)。
 清正とともに「賤ヶ岳七本槍」の一人として名を馳せた加藤嘉明も、伊予松山藩藩主を経て、陸奥会津藩藩主となります。
 また、嘉明の孫の明友が、祖父・嘉明の功績ともどもに評価されて水口藩藩主となりますが、それを記して神社を建立します。(中略)加藤と名乗って永年月が経過してもなお、名流・藤原の血統であることは誇りであったに違いありません。
 また、東京の多摩に鎮座する加藤神社は、武田勝頼の家臣、上野原城主であった加藤丹後守景忠を祭神として祀るものです。清正は、尾張の出自で、もとは武田の家臣であったとされます。そのことからも、同じ加藤を名乗る由縁は確かな根拠があるのかもしれません。(以下略)」(『氏神事典』河出書房新社 より)

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2011年2月20日 (日)

斎藤さんの氏神

 芥川龍之介の小説『芋粥』は、かつては国語の教科書にも載っていたのでご存じのかたも少くないでしょう。
 主人公の貧乏公家に大量の芋粥を供するのは、敦賀の武人・藤原利仁です。彼は、鎮守府将軍までつとめた中世武人の代表的人物です。
 その利仁の嫡男に、藤原叙用という人がおりました。武人としては異例の起用で「斎宮頭(さいくうのかみ)」に任じられます。
 斎宮とは、「さいくう」「さいぐう」「いつきのみや」などとも読みますが、伊勢神宮の斎王のこと。神職とは別格で、未婚の皇女から選ばれ、古来祭祀の象徴的存在です。
 その役所が斎宮寮で、数百人規模から成り、祭祀全般を執りおこないます。斎宮頭とは、この斎宮寮の長官です。皇室にとってきわめて重要な役職であるところから、それまでは公卿から任ぜられるのが慣例でした。
 叙用は、この役職を誉れとして、「斎宮の藤原」略して「斎藤」と名乗ったのが始まりです。つまり、この人こそは、全国の斎藤さんのご先祖様ということですね。
 由来が「斎宮」ですから、「さいとう」という読み方をする苗字は、どのような異字であっても、元は「斎藤」ということになります。
 異字には、斉藤、齋藤、齊藤、才藤、済藤、西東、西塔、西頭、西藤、斎当、犀藤、薺籐、財藤、斉当、斎東、齋東、再東など多種ありますが、その表記の種別によって分家などの由来を表しています。
 もっとも、利仁将軍の武名にあやかって、血縁はないものの「さいとう」を名乗った人も各地にいたとのこと。その中には、「遠慮して」略字や異字を用いた人もいたとは当然考えられます。
 その斎藤さんの氏神は、菅生石部神社(すごういそべじんじゃ 石川県)です。(以下、詳細は略)
(『氏神事典』河出書房新社 より)

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2011年1月28日 (金)

氏神は3つ?!

「転居すると氏神は変わるのですか?」──そういう問い合わせを数件いただきました。
皆さん、神社本庁や各地の神社庁に問い合わせて「現住所をもとに」氏神を教えていただいているようです。ただ、それが当人の「氏」の神であるということに完全な納得は行っていないようですね。
引っ越すだけで氏神が変わってしまうということに「?」のようです。

古くは氏神は「氏族の神」のみでしたが、現在では氏神は3種類あります。

氏神の類型
①地域社会の氏神──氏子区域内のすべての住民が「氏子」として祭礼に奉仕・参加するもので、地縁氏神といいます。氏子の代表者は氏子総代と称し、神社の祭礼などにおいては中心となります。
②一家の氏神──一家とは血縁による同族・一族・一門などとも呼ばれるつながり。その血縁者のみが祀るもので、血縁氏神・同族神などともいいます。
③屋敷の氏神──個人の家の屋敷内に祭るもの。家の氏神・屋敷神などともいいます。

神社本庁は地域をベースにした管理体制を基準にしていますので、①を指導するようにしているのでしょう。
また、②や③はなかなか調べにくいものなので、本庁は関与しないようにしているのでしょう。

正確には、「氏族の元々の氏神は永遠に変わりませんが、地域=氏子区域の氏神はその時の居住地の神になる」ということです。
たとえば、源氏の血をひくあなたが現在は東京都文京区根津に住んでいるとすれば、氏族の氏神は鶴岡八幡宮で、地域=氏子区域の氏神は根津神社になります。

また、産まれた土地の神のことを産土(うぶすな)神と呼んでおり、その人の一生を守護する神です。「産土」と表記するように、「うまれた土地」に由来する神です。そのため、初宮詣を産土詣りと呼ぶこともあります。
他の地域へ転居すると、転居先の氏神の氏子となりますが、産土神は転居と無関係で、生涯変わることがありません。
なお、その人が生まれたその土地の神を産土神とも呼ぶとともに、単純に「その土地の神」をも産土神と呼びます。
つまり元々の産土神は生涯変わることはなく、元々の氏族の氏神も生涯変わることはなく、居住区域=氏子区域の氏神だけが転居によって変わります。

ひとによって、これらの三神がすべて異なるひともいれば、すべて一緒のひともいるということです。

ちなみに私は、三神すべて異なります。
産土神は宗像神社で、氏族の氏神は金鑽神社で、地域の氏神は天祖神社です(一般のひとには無縁ですが、神職としての奉職神社はまた別になります)。

古代には多くの人が、氏族の氏神を産土神として生まれて、生涯その氏子区域から出ることなく暮らしていたのが普通だったのでしょうね。なんとうらやましくも平和な一生なのでしょう!

(参考『氏神事典』河出書房新社)

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2010年10月24日 (日)

丹党の氏神は金鑚神社(かなさなじんじゃ)

丹党の氏神は、埼玉県児玉郡神川の金鑚神社(JR八高線・丹荘駅)。
社伝では、「日本武尊東征の折、御姨倭比姫命より賜った火鑽金火打石を御室山に収めて」それに由来するとなっている。
当社には本殿がなく、拝殿のみで、背後の神体山そのものを拝礼するという原初の信仰形態だ。
古代、秩父地方は銅の産出で有名であったが(和銅開珎)、鉄や丹の産出も際立っていた。
それが山を拝むことにつながったものだろう。

丹党発祥の系譜についてはいくつかの説がある。
『武蔵七党系図』では、宣化天皇の曾孫多治比古王を祖とし、その子孫・多治比(丹比)氏が武蔵国に居着いて丹党になったとするが、その系図自体に疑問がもたれている。
現在では、紀国造家より発したという説が有力だ。
丹生系図によれば、丹生都比売の祝家となった大丹生直丹生麿の後裔・丹貫主峯時が丹党の祖となる(この後、武蔵守・多治比氏の子孫を一族に迎えて丹比としたか)。

丹党は、古代より秩父地方から群馬にかけて大いに栄えてきたが、
その力の源泉は産出される豊富な資源にあった。
奥州藤原が金を産出したのに対して、秩父平氏が銅、そして丹党は文字通り「丹」を掌握することによって力を得た。
「丹(に)」とは辰砂のことで、水銀と硫黄の化合したもの。
すでにわが国では弥生時代から採掘されていた。
丹党は、丹生神社(丹生都比売)を祀ることで一族の結束をもはかった。
この一帯には各地に祀られて、その中心が金鑚神社である。

金鑚の字は後世のもので、古くは金佐奈と記される。
これは「金砂」に由来するものだろう。
ちなみに常陸の金砂神社もやはり丹の謂われをもつのもので、
「かなさな」と「かなすな」は元は一つと思われる。
ただ、金鑚神社をはじめ、この一帯の丹生神社は祭神を丹生都比売から変えてしまったところが少なくない。
奥秩父の両神神社も、元は丹生明神と呼ばれていたが、社名も祭神も変わってしまった。
丹の産出が尽きたことと関わりがあるだろう。

『氏神事典』河出書房新社 より

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