« 日教組の戦略はみごとに成功した。悲しいかな。 | トップページ | ローリング・ストーンズ »

2019年2月10日 (日)

■諏訪祭祀家の氏神「洩矢神」の秘密

 ニギハヤヒの鎮魂は前述の通りで、物部氏の本宗家から石上(いそのかみ)氏を出し、石上神宮の祀職となり、祖神を祀った。
 それでは肝心の物部本宗家はどうなったかというと、物(もの)部(のべの)守(もり)屋(や)(石上の兄。一説には弟)が本宗家となったが、丁未(ていび)の乱(物部守屋の乱/五八七)で討ち死にしたと伝えられる。この戦いによって、本宗家は蘇我氏に滅ぼされた。──そしてこれについては、さらに二年後の二〇一四年に上梓した拙著『諏訪の神──封印された縄文の血祭り』において追究する機会があった。
 諏訪大社上社の祀職であった神長官・守矢氏の氏神は、その系図に「始祖・洩矢神」と明示されている。
「洩矢神」は、一般に「モレヤのかみ」と読まれているようだが、当然ながらこれは「モリヤのかみ」が正しい。守矢家は通称・神長(じんちよう)家とも呼ばれているのでまことにややこしく、しかも神長官ではなく略されているが(「官」称は遠慮したか)、氏としては「モリヤ」である。氏神に限って「モレヤ」と訓む理由はないので、長い時間が経過するうちにどこかで訛ったものであろう。いずれにしても「モレヤ」と訓む事例は守矢家関連では他には皆無であるので、これが変形であることは自明であろう。
 諏訪地方の姓氏表記(本当は姓ではないので単なる苗字だが)は、守矢、守屋、守谷などがあって、守矢と表記するのが本家とされている。
 にもかかわらず、なぜ始祖が守矢神でなく洩矢神と表記するのか、この点にも謎がある。あるいは始祖「モリヤ」は、「洩れた矢」に特別の謂われか拘りがあるのだろうか。こういう際の選字は、得てしてその〝死因〟に関わることがあるもので、「モリヤ神」の正体を見極める中で手掛かりが見出されるのかもしれない。
 ところで守屋山山麓には、守屋社(通称・物部守屋神社)が鎮座しており、山頂にはその奥宮がある。かつて賑わっていたかはいざ知らず、少なくとも現在は訪ねる人も稀な様子だ。
▼守屋社 長野県伊那市高遠町藤沢片倉
【祭神】物部(もののべの)守屋(もりやの)大連(おおむらじ)
 奥宮には氏子によって常に小さな弓が供えられているが、山麓の里宮(本社)の依り代が「弓」であったことに由来するようだ。伝承では、祭神・物部守屋の弓が納められていたようだが、今は失われている。代わりに細長い石が置かれているが、最近のものだ。諏訪のミシャグジは〝石棒〟であるとされているので、それを承知で誰かがこれを選んだものだろう。守屋山が岩山であるので、守屋社も依り代を石棒とすれば、信仰上の整合は図れる。本来の由来がどうであれ、現在の氏子の意向が反映されているかのようだ。しかし守屋山山頂の磐座と、鉄柵に被われた石祠(守屋神社奥宮)とは、そう簡単に〝一体化〟されるものではない。本宮が、古き神と新しき神の二重構造になっているように、守屋山も二重構造なのである。
 さて、この守屋社と神長官・守矢氏とはいかなる関係にあるのか。
 ここまで確認してきた事実関係からそれを判断するのは、そう難しいことではない。全国の少なからぬ事例──氏族と氏神の関係性──を列挙するまでもなく、これは〝典型〟である。すなわち、神長官・守矢氏の氏神神社は守屋社であり、守屋社の祭神である物部守屋大連は氏祖である。したがって、洩矢神とは物部守屋大連のことである。
 ただ、守矢家では、守屋社および物部守屋とのつながりは表立っては認めていない。ただ、伝説伝承の類はいくつかあって、『信濃奇勝録』(天保五年/一八三四)には、物部守屋の一子が森山(守屋山)に隠れていたが、神長の養子となり、森山に父・守屋の霊を祀り、それ以後、守屋ヶ岳というようになった、とある。
 また、大祝の「諏訪信重解状(げじよう)」(宝治三年/一二四九)には、「諏訪は物部大臣の所領であった」ともある。
 本解状は、『諏方大明神画詞』より百年ほど前のものであり、「画詞」は本解状に基づいて創作されているので、「画詞」よりは資料価値ははるかに高い。しかしそれでも、当時の伝聞を掻き集めたものであるので、一貫性や信憑性を求めることはできない。なかでも右に挙げたくだりは最も重要な証言であるが、「守屋大臣」の表記に問題がある。物部守屋であれば「大連」であり、単なる誤記であろう。ところが後世一般に、この守屋大臣は神長官・守矢氏のことと解釈されている。しかし守矢氏が「大臣」を称したことはなく、こちらを採るなら「大臣」という位を付け加え、しかも「守矢」でなく「守屋」とわざわざ記したことになる。この解釈は一層無理があるようだ。
 ただし、神長官・守矢氏が、物部守屋の子孫であるならば、単なる誤記以外は後世の解釈も誤りではないということになるだろう。
 
 諏訪大社の創建は物部守屋敗死よりはるかに古いのは言うまでもないが、それは古き神・ミシャグジであって、新しき神・建御名方は神居に鎮まり、諏訪信仰の姿を一変させた。そしてそれをおこなったのは、おそらくは祭祀氏族の物部であろう。
 なお、神社ではないが、長野県を代表する寺院の善光寺も物部守屋に由縁の伝承がある。本堂は一〇八本の柱によって支えられているのだが、すべて円柱の中で唯一大黒柱のみが角柱で、これは別名「守屋柱」と呼ばれている。柱の下には物部守屋の首が埋設されていると伝えられる。
 また、善光寺の本尊は、そもそも物部守屋が蘇我馬子の寺を破壊して、仏像を難波の堀江に棄てたものを本田善光なる者が拾い上げて持ち帰ったのに始まると伝えられる。──ただ、善光寺は十一回も全焼しているので、どこまで信憑性を求められるか判然しないが、少なくとも長野という地域が物部守屋と何らかの関わりを持っていたであろうことは示唆してくれる。
(『ニギハヤヒ(増補版)』河出書房新社 増補最終章より)

Nigihayahi01

|

« 日教組の戦略はみごとに成功した。悲しいかな。 | トップページ | ローリング・ストーンズ »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■諏訪祭祀家の氏神「洩矢神」の秘密:

« 日教組の戦略はみごとに成功した。悲しいかな。 | トップページ | ローリング・ストーンズ »