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2019年2月28日 (木)

【幻の富士山】

 富士山は、実は『古事記』にも『日本書紀』にも、まったく出てきません。
 不二山、不死山、不尽山、福慈山など別名も含めて皆無です。
 存在したという気配さえもありません。 
 日本人なら、この「事実」に驚かない人はいないでしょう。
 日本および日本人の歴史・文化は「富士山と共にある」と思っているからですよね。しかも、それはまぎれもない「事実」だからです。
 富士山と共に歩んできた日本・日本人という事実と、記・紀に登場しないという事実──この矛盾、一体全体どうしたことでしょう? 何が起きたというのでしょう?
 富士山が現在のような美しい山容(姿形)となったのは、おおよそ一万年前とされているので、記・紀が成立した当時──八世紀には、日本国内ではあまねく知られていたことは間違いありません。
 そればかりか、海の向こうにさえもかなり古くからその存在は伝わっていたようです。おそらく紀元前に、すでに大陸沿岸部や半島には知られていたと考えられます。
 しかしなぜか、わが国の最古の史書である記・紀は完全に無視しているのです。
 記・紀が編纂された時代は八世紀ですから、「知らなかった」などとは到底考えられません。
 ということは、「知っていたのに記載しなかった」のでしょう。
 現に、同時代の歌を集めた『万葉集』には富士山が数多く歌われているのです。
 田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける
 
 ほぼすべての学校教科書に掲載されている山部赤人(やまべのあかひと)の歌です。
 ちょっと編集したものが『百人一首』にも入っているので、皆さんお馴染みですね。
 赤人は天平八(七三六)年頃に没したとされるので、それ以前の歌ということになります。
『万葉集』では、他にも数多くの歌に富士山は詠まれています。
 また、ほぼ同時代の養老年間(七一七~七二二)に成立した『常陸国風土記』には「福慈岳(ふじのたけ)」と記載されていて、富士山にまつわる神話が紹介されています。
 いずれも、当時の日本人が富士山の存在をよく知っていたという証しです。
 それなのに記・紀は一切触れていません!
『古事記』は七一二年、『日本書紀』は七二〇年の成立ですから、万葉や風土記と同時代なのに、です。
 これはいったいどうしたことなのでしょう。
 ヤマトタケルは、『古事記』は相模で、『日本書紀』は駿河で火攻めに遭遇して草薙剣で薙ぎ払って窮地を脱するという有名なエピソードが記・紀それぞれ語られます。しかし、どちらも富士山は出てきません。ヤマトタケルの視界にイヤでも入っていたはずなのに、です。
 富士山本宮浅間大社の祭神であるコノハナサクヤヒメは、オオヤマツミの娘として、またニニギの妻として記・紀ともに登場しますが、富士山との関わりは一切出てきません。
 いずれも、なんとも〝不自然〟ではありませんか。どちらも〝意図的に〟避けているとしか思えませんね。
 富士山の存在を認めさせる神社も各地にあって、しかもそれらは記・紀の編纂よりはるかに古くから鎮座しています。
 伊勢の内宮はその代表です。
 内宮は富士山を前提に設計されているのです(詳細は本文にて)。
 つまり富士山信仰はすでに古くからあったのに、記・紀にはなぜかまったく記載されていないということなのです。
 これはいったい、如何なる理由によるものでしょう。
 私はこの謎を突き詰めて行くうちに、解答は一つしかないのではないかと考えるに至りました。
 すなわち、富士山は「禁忌(きんき)」(taboo)であったのではないか、と。
 歌には詠まれても、また地方の記録には登場しても、「朝廷の史書」では触れることさえできない禁忌(タブー)であったのだろうということです。つまり「政治的禁忌(タブー)」あるいは「宗教的禁忌(タブー)」です(古代ではこの二つは一体で、「まつりごと」と総称します)。
 ヤマト朝廷には、富士山に触れてはならない重大な理由があった!──それが私の到達した解答です。そしてそれ以外にこの謎を説明することは不可能でしょう。
 公式の史書に初めて「富士山」が登場するのは『続日本紀』(七九七年成立)の天應元年(七八一)の条です。
『日本書紀』成立(七二〇年)から七十七年経っています。
 つまり、この間に「富士山の禁忌(タブー)」が解消されたということになります。
 この間に何があったのか、真相を知るには、それも大きな手掛かりです。
 ここであらためて指摘しておきますが、「フジ・サン」はヤマト言葉ではありません。漢語であり漢音です。
 もし富士山をヤマト訓みするのであれば「富めるもののふのやま」ということになるでしょうか。
 しかし「富士」は好字令(七一三年)によって選ばれた吉字ですから、「フジ」あるいは「フヂ」という発音がすでにあったということです。
 ただ、それがたとえ不二、不死、不尽、不知などの表記であろうとも、いずれも漢語であって、「fu-ji」という発音を基盤にした当て字ということになります。
 そもそも「フジ」という呼び名自体が漢語音であるとするならば、呼び名自体も新たに付けられたものであって、それ以前に土着の呼び名があったはずです。
 これだけの突出した山岳が聳えていて、呼び名の存在しないはずがないのですから。
 とすれば、古くは別の呼び名があって、ある時期に「フジ」という呼び名が与えられたことになります。
「フジ」山が禁忌とされた理由も、この辺りの事情に由来するのかもしれません。
 本書は、その「秘密」を解き明かすのが目的です。どうやらそれは、私たち日本人のルーツに関わる「秘密」でもあるようです。
 富士山が禁忌(タブー)であったとするならば、それはなぜか。
 また、その後、禁忌が解除されたからこそ、日本人のすべての人口(じんこう)に膾炙(かいしや)する(人々が口にするようになる)こととなるわけですが、どうして解除されたのか。そこに何があったのか。 ──あなたの知らない「富士山の秘密」へとご案内しましょう。
(『富士山、2200年の秘密』かざひの文庫 「まえがき」より)

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2019年2月27日 (水)

いま、私が最も関心を抱いているのは「シンギュラリティ」である。

2045年の時点で、私がまだ生きているかどうかわからないが。
ギリギリか、な?

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2019年2月24日 (日)

ドナルド・キーンさん 心よりお悔やみ申し上げます。

201611

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2019年2月17日 (日)

ローリング・ストーンズ

キース・リチャーズは、こんな名言を残しています。

 

「死んでから伝説になるくらいなら、生きてるうちに伝説って呼ばれたいね!」

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2019年2月10日 (日)

■諏訪祭祀家の氏神「洩矢神」の秘密

 ニギハヤヒの鎮魂は前述の通りで、物部氏の本宗家から石上(いそのかみ)氏を出し、石上神宮の祀職となり、祖神を祀った。
 それでは肝心の物部本宗家はどうなったかというと、物(もの)部(のべの)守(もり)屋(や)(石上の兄。一説には弟)が本宗家となったが、丁未(ていび)の乱(物部守屋の乱/五八七)で討ち死にしたと伝えられる。この戦いによって、本宗家は蘇我氏に滅ぼされた。──そしてこれについては、さらに二年後の二〇一四年に上梓した拙著『諏訪の神──封印された縄文の血祭り』において追究する機会があった。
 諏訪大社上社の祀職であった神長官・守矢氏の氏神は、その系図に「始祖・洩矢神」と明示されている。
「洩矢神」は、一般に「モレヤのかみ」と読まれているようだが、当然ながらこれは「モリヤのかみ」が正しい。守矢家は通称・神長(じんちよう)家とも呼ばれているのでまことにややこしく、しかも神長官ではなく略されているが(「官」称は遠慮したか)、氏としては「モリヤ」である。氏神に限って「モレヤ」と訓む理由はないので、長い時間が経過するうちにどこかで訛ったものであろう。いずれにしても「モレヤ」と訓む事例は守矢家関連では他には皆無であるので、これが変形であることは自明であろう。
 諏訪地方の姓氏表記(本当は姓ではないので単なる苗字だが)は、守矢、守屋、守谷などがあって、守矢と表記するのが本家とされている。
 にもかかわらず、なぜ始祖が守矢神でなく洩矢神と表記するのか、この点にも謎がある。あるいは始祖「モリヤ」は、「洩れた矢」に特別の謂われか拘りがあるのだろうか。こういう際の選字は、得てしてその〝死因〟に関わることがあるもので、「モリヤ神」の正体を見極める中で手掛かりが見出されるのかもしれない。
 ところで守屋山山麓には、守屋社(通称・物部守屋神社)が鎮座しており、山頂にはその奥宮がある。かつて賑わっていたかはいざ知らず、少なくとも現在は訪ねる人も稀な様子だ。
▼守屋社 長野県伊那市高遠町藤沢片倉
【祭神】物部(もののべの)守屋(もりやの)大連(おおむらじ)
 奥宮には氏子によって常に小さな弓が供えられているが、山麓の里宮(本社)の依り代が「弓」であったことに由来するようだ。伝承では、祭神・物部守屋の弓が納められていたようだが、今は失われている。代わりに細長い石が置かれているが、最近のものだ。諏訪のミシャグジは〝石棒〟であるとされているので、それを承知で誰かがこれを選んだものだろう。守屋山が岩山であるので、守屋社も依り代を石棒とすれば、信仰上の整合は図れる。本来の由来がどうであれ、現在の氏子の意向が反映されているかのようだ。しかし守屋山山頂の磐座と、鉄柵に被われた石祠(守屋神社奥宮)とは、そう簡単に〝一体化〟されるものではない。本宮が、古き神と新しき神の二重構造になっているように、守屋山も二重構造なのである。
 さて、この守屋社と神長官・守矢氏とはいかなる関係にあるのか。
 ここまで確認してきた事実関係からそれを判断するのは、そう難しいことではない。全国の少なからぬ事例──氏族と氏神の関係性──を列挙するまでもなく、これは〝典型〟である。すなわち、神長官・守矢氏の氏神神社は守屋社であり、守屋社の祭神である物部守屋大連は氏祖である。したがって、洩矢神とは物部守屋大連のことである。
 ただ、守矢家では、守屋社および物部守屋とのつながりは表立っては認めていない。ただ、伝説伝承の類はいくつかあって、『信濃奇勝録』(天保五年/一八三四)には、物部守屋の一子が森山(守屋山)に隠れていたが、神長の養子となり、森山に父・守屋の霊を祀り、それ以後、守屋ヶ岳というようになった、とある。
 また、大祝の「諏訪信重解状(げじよう)」(宝治三年/一二四九)には、「諏訪は物部大臣の所領であった」ともある。
 本解状は、『諏方大明神画詞』より百年ほど前のものであり、「画詞」は本解状に基づいて創作されているので、「画詞」よりは資料価値ははるかに高い。しかしそれでも、当時の伝聞を掻き集めたものであるので、一貫性や信憑性を求めることはできない。なかでも右に挙げたくだりは最も重要な証言であるが、「守屋大臣」の表記に問題がある。物部守屋であれば「大連」であり、単なる誤記であろう。ところが後世一般に、この守屋大臣は神長官・守矢氏のことと解釈されている。しかし守矢氏が「大臣」を称したことはなく、こちらを採るなら「大臣」という位を付け加え、しかも「守矢」でなく「守屋」とわざわざ記したことになる。この解釈は一層無理があるようだ。
 ただし、神長官・守矢氏が、物部守屋の子孫であるならば、単なる誤記以外は後世の解釈も誤りではないということになるだろう。
 
 諏訪大社の創建は物部守屋敗死よりはるかに古いのは言うまでもないが、それは古き神・ミシャグジであって、新しき神・建御名方は神居に鎮まり、諏訪信仰の姿を一変させた。そしてそれをおこなったのは、おそらくは祭祀氏族の物部であろう。
 なお、神社ではないが、長野県を代表する寺院の善光寺も物部守屋に由縁の伝承がある。本堂は一〇八本の柱によって支えられているのだが、すべて円柱の中で唯一大黒柱のみが角柱で、これは別名「守屋柱」と呼ばれている。柱の下には物部守屋の首が埋設されていると伝えられる。
 また、善光寺の本尊は、そもそも物部守屋が蘇我馬子の寺を破壊して、仏像を難波の堀江に棄てたものを本田善光なる者が拾い上げて持ち帰ったのに始まると伝えられる。──ただ、善光寺は十一回も全焼しているので、どこまで信憑性を求められるか判然しないが、少なくとも長野という地域が物部守屋と何らかの関わりを持っていたであろうことは示唆してくれる。
(『ニギハヤヒ(増補版)』河出書房新社 増補最終章より)

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2019年2月 6日 (水)

日教組の戦略はみごとに成功した。悲しいかな。

高校の進路指導では、成績が最も良い生徒は医学部受験に導かれる。
これは長年、おこなわれてきた慣例で、
医師はたいてい裕福だから、
裕福になるためには医師になるのが早道だということでもありましたね。
さらに、大学病院等の勤務医は特別裕福ではないし、
ベテラン看護師のほうが給料も良かったりするのですが、
社会的地位の高さでは、「大学病院の医師」といえば、トップクラスであって、
プライドの満足感もひときわでしょう。
その魅力には、なかなか勝てませんよね。
てなわけで、
進学校で成績が最も良い生徒たちはわれもわれもと医学部を目指す。
そうです、最も優秀な人材は、みんな医学部直行です。
では、他の職業はどうなるの?
政治家も財界人も、成績がトップクラスの人はなりません。
よほどひねくれた反抗心おおせいの人でないと、
つらぬけない。
政経学部や商学部への進学なんて、進路指導の先生は絶対にすすめませんからね。
せっかくトップクラスの成績なのに、文化系なんかに行ってどうするの?
もったいない!
というわけで、
日本をダメにするという日教組の長年にわたる戦略はみごとに奏功したのです!
政界も財界も、Bランク、Cランクの人材ばかりになりました。
これを変えるには、いますぐ取り組んでも、今後数十年はかかるでしょう。
たぶん、もう手遅れですね。
その間に、国はつぶれてしまうかも・・・・・・・・!!!
などと、日々、嘆いておりますが、
若者たちよ、なんとかしてくれ。

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2019年2月 5日 (火)

漫画は、もはやメインカルチャーになった。

「漫画は、もうサブカルチャーじゃないよね」と、宮崎駿さんが言ってましたね。
代表的な情報源になっているとも指摘してましたが。
少年マガジンや少年サンデーで育った私たちの世代がもう60歳台なのだから、
価値基準も変えないとね。
かつてのメインカルチャーのほとんどがいまやマイナーカルチャーに落魄してしまったのは悲しいことですが。

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2019年2月 3日 (日)

■草薙剣(くさなぎのつるぎ)はスサノヲの依り代ではない。

 三種の神器の一つである草薙剣は、現在ではスサノヲの依り代ということになっている。
 しかし由来を考えると、十握剣がスサノヲの依り代であれば合点が行くが、草薙剣(天叢雲剣)だとすると理屈に合わない。
 スサノヲがヤマタノオロチを退治した際に、その尾から出て来たとしているが、それならばオロチ退治を成し遂げた十握剣こそがスサノヲの依り代として祀られるべきであるだろう。
 スサノヲの佩刀(はいとう)・十握剣(とつかのつるぎ)は「勝者の剣」であり、ヤマタノオロチの体内刀・天叢雲剣は「敗者の剣」である。だからこそ天叢雲剣は怨霊神となって、崇神天皇の御代に祟りを為した。敗者が祟るのであって、勝者のスサノヲが祟る謂われはないだろう。
 つまり、天叢雲剣は別の誰かの依り代である。
(『三種の神器』河出書房新社 第2章より)

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2019年2月 2日 (土)

■江戸にはなかった新たな東京龍脈

 対数螺旋の水路こそは、江戸の一大発展の原理でした。
 ただ残念ながら、現在の東京ははこの形状をとどめていません。
 濠はあちこちで埋められて寸断されて、皇居の周囲を除けば、あとはコマ切れの溜め池にすぎない状態です。
「内堀」「外堀」などという呼び名が現代において定着しているのは、この所為もあるでしょう。現在の東京都内の地図を眺めても、もはや「螺旋水路」を見て取ることは困難です。
 さてそれでは、「螺旋水路」の失われた東京は、弱体化しているのでしょうか。
 ところが現代の東京は、あらゆる意味で最高度に発展したのを裏付けるように、風水もより強力になっているのです。
 その根拠は何か?
 実は、「鉄道」と「道路」が水路に替わってその役割を果たしているのです。
 かつて水路は、都市の経営にとって重要な機能の最たるものでした。
 とくに江戸と大坂は、基幹交通路として活用され、平時は経済活動の動脈として、また非常時は防衛線となっていたのです。
 しかし時代は急激に変化しました。
 それにともなって水路の役割もまったく変わりました。
 鉄道が発達してまず物資の運送運搬機能が失われ、さらに道路と各種車輌の急速な発達は、水路をほとんど無用のものと化したのです。
 存在意義が希薄になれば、風水の意義も希薄となります。それが人工施設の宿命です。
 もともと存在する大自然の「四神」は、人間社会がいかに変化しようとも基本的には不動です。 
 しかし四神相応の整合を図るために人工的に整備造作されたものは、環境が変わって意義に異動があれば当然変わるものです。
 たとえば京都の鴨川の意義が希薄となったのも時代の変化、社会の変化のゆえでした。この青龍が土木工事によって建設されたのは時代が求めていたからでもあって、したがって時代が移り変わればその価値も変わります。
 鴨川は、どぶ川時代を経て、飾りものの観光資源となったのです。
 東京の隅田川も同様です。
 もはやそれらの水路は、日本の文明や社会の発展にとって絶対条件ではなくなりました。
 あえて比較するならば、その必要性において、道路に及ばないことはもちろんですが、鉄道にさえもはるかに後塵を拝するものでしょう。
 ヴェネツィアのような水上都市であるならいざ知らず、現代の都市にとって水路はもはや補助的な機能でしかないのです。
 そして、より大きな経絡(けいらく)に、より強い「気」が集まり伝わるのは基本原理です。
 したがって、いま最も強い「気」は、最も大きな幹線道路や幹線鉄道によって導かれているということになります。
 東京には「環状線」と称されている鉄道と道路が建設され、それらは今もなお生長し続けています。
 そして関東・東京のそれは、ひたすら丸の内界隈を目指すようデザインされているのです。
 そしてその手法のパイオニアが天海なのです。
 天海の呪術の特異性は、ただ一点に収斂されます。
 そう、その答えこそは「富士山」なのです。
 富士山をすべての根源に位置付けることで、これまでの陰陽道(風水・方術)とは異なる原理を生み出しているのです。
  江戸東京が富士山に呪縛された都であることは認識していただけたかと思いますが、それではなぜそれほどまでに富士山を畏敬するのか。その「秘密」を解き明かしましょう。
(『富士山、2200年の秘密』 かざひの文庫 第1章より)
 

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