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2019年1月30日 (水)

私の基本姿勢はリベラルアーツである。

ちょっと意外かもしれないが。
そもそも、道教や陰陽道はリベラルアーツなんだよね。
古神道も、本質的にはそういえるだろうね。
拙著 『神道と風水』 (河出書房新社)をご覧いただくと、きっとご納得されることでしょう。

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2019年1月29日 (火)

「三種の神器」とは何か?

  三種の神器についての「いかにも真相めいた言説」の一つに、「平家滅亡の時、壇ノ浦に沈みオリジナルは失われた」というものがある。今年はNHKの大河ドラマが『平清盛』であるために、さらに流布されるかもしれない。
 それでは事実は、どうか。
 源平合戦の終幕、安徳天皇はわずか八歳(数え歳)で入水という悲劇の最後であった。そしてその際に、三種の神器のうち八咫鏡(やたのかがみ)は船上御座所にあったが、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉とは二位尼が携行して帝と共に海中へ失われたと伝えられる。そして、曲玉は木箱ごと浮いたためすぐに回収されたが、剣は海中に没して二度と発見されなかった。──これは事実であろう。
 しかし、そのはるか昔、第十二代・景行天皇の時に草薙剣(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))は熱田社に御神体として納められており、宮中に置かれていたのは「写し」あるいは「分身」である。本体(オリジナル)ではない。
 それは鏡も同様で、八咫鏡は伊勢の内宮(ないくう)(皇大神宮(こうたいじんぐう))に第十一代・垂仁天皇の御代に遷座して以来変わらずに鎮座している。宮中賢所(かしこどころ)に祀られるのはやはり「写し」あるいは「分身」である。すなわち平家が持ち出したものはそれである。
 唯一「玉璽(ぎよくじ)(八尺勾璁(やさかのまがたま)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま))」のみ本体が宮中にあるとされる。
 なお、剣と玉璽は天皇の行くところ常に携行するもので、これは現在に至る皇室の慣習で「剣(けん)璽(じ)御動(ごどう)座(ざ)」という。
 この慣例は日本神話に由来するとされるが、いささか異動があるので詳細は本文で明らかにしよう。また、剣璽御動座のために携行される玉璽が本体そのものであるかどうかについても後述する。
 ──という次第で、三種の神器の本体は今も変わらず無事である。どれ一つとして失われたものはない。どうぞ怪しげな流布説に惑わされぬように。
 すなわち──、
▼八坂瓊曲玉の本体は東京・宮中に鎮座
▼八咫鏡の本体は伊勢・皇大神宮(内宮)に鎮座
▼草薙剣の本体は名古屋・熱田神宮に鎮座
 これが事実である。
 冒頭に示したような説は、すべて「写し」または「分身」において起きた事件を元にしている。
  なおこれについても一部に「フェイク」や「レプリカ」と呼ぶ例があるが、必ずしも相応しいとは言えないだろう。フェイクには模造・偽物という意味合いもあるが、「写し」「分身」はあくまでも本体との連結を保証するものであって、本物に準ずる。その意味ではレプリカ(複製)のほうがまだしも実態に近いかもしれない。私自身も、これまでの著書の中で分かりやすさを訴求するために使ったことがある。
 しかし、これとても正確ではない。実は、鏡も剣も、本体と同じ姿であるとは限らないからだ。皇室祭祀に「三種」が必要であるために、失われたり毀損したりした場合には補充補填しているのだが、それは新たに複製を造るのではなく、収蔵品(ストツク)からピックアップしている(古き時代には模造したこともある)。そしてその時選ばれたものが、本体と同じ姿であるとは誰にも確証はない。
 よって、「分身」と呼ぶのが妥当であろう。歴史的には他にも様々な呼び方がされているが、本質的な意味を重視するならこの他に「御霊代(みたましろ)」「形代(かたしろ)」等と呼ぶのも良いだろう(正しくは「本体」さえもアマテラス神の御霊代であり形代である)。
 それでは「本体」は、はたしてどのような姿をしているのか。天皇でさえ見ることはないとされる「本体」は、原則的に誰も知る者はないことになる。
 しかしその姿をしのぶよすがはないわけではない。
 そもそも神器の名称が形状を示唆しているし、記・紀の記録以来、実見の証言や各種の伝承など、手掛かりはいくつかある。そしてそれらを手掛かりに、本書ではありのままの〈姿〉に迫っている。
 それにしてもなぜ〈姿〉に迫るのか、天皇も見ることができないとされる神器の〈姿〉を明らかにして何の意義があるのか。それは不敬ではないのか。──その問いに答えよう。
 たとえば八咫鏡がもし舶載の漢鏡(漢代に製造された銅鏡)であるならば、それが何者によってどのような経路で宮中に入ったのかを知ることで、きわめて重大な事実が明らかになるだろう。
 あるいは、もし国産の仿製鏡(舶載鏡の複製)か和鏡(日本オリジナル)であるならば、神器の起源はさほど古くないことになる。とくに鉄製の鏡であるならば銅製よりも実用的であるが、時代はより新しい。そしてその起源はかなり具体的に特定できることになる。
 いずれにしても、その姿を明らかにすることは、これまで万巻の歴史書が書き連ねて来たすべての事柄の源流を知ることである。当然と言えば当然だが、それを解析して行くと、天皇という存在の本来の意味が明らかになる。ひいては、日本および日本人の「血脈」が明らかになってくる。これこそは本書の目的である。
  なお、宮中祭祀には「三種」揃うことが不可欠である。とりわけ、皇位継承の祭儀においては大前提となる。三種の神器こそは、古来「皇位」すなわち「天皇という唯一無二の地位」の「保証」であるとされる。
 ということは、三種の神器が揃わなければ、天皇たりえないということだ。一つでも欠けていれば、正統性を得られない。日本史上「二つの朝廷」が存在した南北朝も、三種の神器を護持していた理由のみによって南朝こそが正統であると、明治天皇によって公式に追認されたのもその証しである。
 ただ、右に記した通り、宮中の鏡と剣は「分身」であるから、祭祀王として践祚(皇位につく・天皇になる)すれば、いわば〟自動的に〝本体も継承したことになる。宮中三殿はもちろん、伊勢の神宮も熱田神宮も、祭祀王たる天皇の支配下となるからだ。「分身」は、あくまでも宮中祭祀のためのものである。ということは、南朝が護持していた三種のうち、掛け替えのない神器は玉璽のみであったことになるだろう。
 つまり、ことは「皇位の保証」に関わってくるのだ。これほどに「重要な物品」が、他にあるだろうか。金銀宝石などは単に物理的な評価にすぎないが、これら「三種」にはまったく次元の異なる価値がある。その尊さは何ものとも比較しようがない。そもそも三種の神器は、三種類の「神器」であって、単なる道具でもなく、単なる表象でもない。三種の神器は、「神の依り代」なのである。このことを、ほとんどの研究は忘れている。
 玉、鏡、剣をいくら即物的に研究しても、それは即物的な探求にすぎなくて、どこまで行っても「神器」の真の研究にはならない。
  たとえば神器と似て非なるモノと比較してみよう。
 研究者によってしばしば持ち出されるのは西洋のレガリアだ。レガリア (regalia/ラテン語)とは、王権など高い位を象徴するもので、それを持つことによって正当性の保証とする。西欧では王冠や杖など、古代中国では印璽などをもってそれとした。
 しかしレガリアには「宗教的保証」はない。レガリアは、王権の証しであるが、地位の標識であるにすぎない。
 一方、日本の神器の第一の意義こそは「宗教的保証」であって、国家祭祀はこれをもっておこなう。これが、日本の三種の神器と西洋のレガリアの決定的な差異である。
 そして、私たち日本人の祖先たちは、これら「三種」に「神性」を見出した。神話に記されているから神器としたのではなく、神の御霊代・依り代であったから神器・神宝になったのであるだろう。何故に御霊代・依り代となったかは、これも本文に譲る。
 天皇は、神宝である「三種の神器」を継承することによって、天皇であることを保証される。この〟制度〝は、少なくとも一三〇〇年前には現在の形が成立していた。
 それにしても、なぜ「三種」なのか。
 それぞれにどのような意味があるのか。
 由来するとされる神話との関わりは、また史実との関わりは。
 本書は、これらの真相を解き明かすために、三種の神器に先立つ神宝、ニギハヤヒの「十種神宝」、また盗難や行方不明説にも切り込んで、「天皇の保証」に迫る。いま再び「天皇とは何か」が問われる時に、本書はその存在の根底を解き明かそうという試みである。
 天皇即位にあたって代々継承されてきたかけがえのない宝物──八坂瓊曲玉、八咫鏡、草薙剣の三種は、いまもなお厳然たる〟神秘〝として日本文化の根源に存在する。わが国の歴史において、それがいかに重視尊重されてきたかは、多くのエピソード、伝説が示唆している。
 たとえばスサノヲがヤマタノオロチの尾の中から見出す天叢雲剣、崇神天皇に祟る八咫鏡、そして伊勢・五十鈴川畔に辿り着くまでの長い旅路、ヤマトタケルが危地を脱する草薙剣、しかし天武天皇に祟る草薙剣、あるいは平家滅亡に伴われた神器、義経が後白河上皇に渡した神器、南北朝や明治維新での奪い合いから、進駐軍の接収計画──等々。歴史の節目は、三種の神器と大なり小なり関わっていたとさえ言えるかもしれない。
 玉、鏡、剣という三点のキー・ワードは、日本文化を理解する重要なポイント、あるいは視点であるだろう。日本史から「神器」を消すことはできないし、日本文化から「神器」を消すこともできない。そして三種の神器が秘めている思想は、日本人のアイデンティティに直結しているのだ。私たちが今、ここにいてこうしている必然が三種の神器にあると言っても過言ではないだろう。もしも三種の神器がなかったら、これまでの日本史、現在の日本文化はよほど違ったものになっていただろう。
 しかし、「三種の神器」をタイトルとした書籍・類書は実はきわめて少ない。「電化製品の三種の神器」「ビジネスマンの三種の神器」等という使われ方では目にすることが珍しくないにも関わらず、いまや日本人の常識・基本知識から「三種の神器」は欠落してしまったかのようだ。本書は、あらためて「根源」に焦点を当てることで、日本および日本人のアイデンティティを明らかにしよう。

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2019年1月27日 (日)

天皇家の苗字について

 天皇家に苗字のないことは周知のことだが、実は「姫(き)」氏なのだという説がある。
 かなり古くから一部に知られている説で、平安時代の講書(『日本書紀』を天皇に講義した記録)などにも書かれている。博士への質疑の一つに「わが国が姫氏(きし)国と呼ばれるのはなにゆえか」とある。
 姫(き)とは、中国の周王朝の国姓である。つまり、もし天皇家の苗字が姫氏であるならば、日本の天皇は周王朝の血筋であるということになる。
 日本で最も古い氏族の一つである紀伊の国造家は、紀(き)氏という。紀長谷雄(きのはせお)や紀貫之(きのつらゆき)らを輩出している名家の中の名家である。キイ、キノと呼んだりもするがキ氏が本来で、姫氏と同じ発音だ。
 そしてその古い系譜は紀元前にまで遡る。紀氏が海人族を従えて水軍を組織していたことを思うと、中国江南あたり(呉・越などの海人族)と古代から行き来があったというのも現実味がある。鯨漁が発展した下地には、海人族の卓越した漁撈技術があったのだろう。
 元々の姫氏国である周は、紀元前一〇四六年頃に建国し、紀元前二五六年に秦に滅ぼされた。奇しくもその頃から、わが国で「銅鐸」が造られるようになる。
 また、なぜか周王族はその後も存続を許されていて、血筋は絶えなかった。政権が代わると、前の王室を根絶やしにするのが中国の通例なので、秦のこの措置は異例である。
  日本が姫氏国であるとは、中国の歴代王朝を訪問した日本の使節みずからがそう称したのだと、中国の古い歴史書に記されている。どうやら中国の為政者や学者たちの間では昔からかなり知られていたことのようで、記されている文献は一つや二つではない。
  この説の肯定派の代表は儒学者の林羅山、否定派は国学者の本居宣長で、一時期かなりの論争があった。 
 皇室が本当に周王家の血筋であるか、また姫氏であるかはともかくとしても、かつてそう名乗っていたことだけは確かだろう。歴代の中国王朝に対して、朝貢使が「日本国王の姓氏」として皇帝に答えているのだ(他に国姓は「倭(わ)」「天(あめ)」などの異説もあるが、あえて採り上げるほどの根拠はない)。
 国家によって派遣された朝貢使が、国姓を問われて勝手に創作するはずもないので、あらかじめ確認もしていたであろうし、遣使団の中でも主要メンバーには共通認識であったに違いない。
 遣隋使や遣唐使などの遣使は、少ないときで五十人規模、多いときは五九〇人(七三三年)もの集団であったが、中心は身分の高い知識人たちである。皇室ともなんらかの交流があり、歴史関係の資料に接する機会もあっただろう。そういう彼らの応答であるから、いい加減なものであろうはずがない。
 とすれば、それにはそれだけの理由があるのが当然で、もしこれを解き明かすことができるなら、そこからさらに様々な歴史の裏側も見えて来るだろう。
 そしてその手がかりが、始源の「謎の神」にあると私は考えた。
 ヒルコである。水蛭子、蛭兒などと「記・紀」には記される。
 神々の物語を、その後に続く歴史記録から逆算すると、ヒルコ誕生は周の滅亡というタイミングにきわめて近い。
 ヒルコは、イザナギ、イザナミの最初の子(『古事記』)でありながら、棄てられた神である。アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの兄であるのに、この処遇はいかなることか。しかも神であるのに、その来歴がまったく記されていない。
 記・紀にはこの世界のあらゆる神が描かれていて、なかには「こんなものまで」と思わず言いいたくなるような神までいる。
 それなのに、ヒルコは尊貴の生まれでありながら、何の来歴も示されずに遺棄されるのだ。
 はたしてこの神は、どこから来て、どこへ行ったのか。
 始原の神でありながら、生後すぐに葦船に乗せて海に流されたとのみ記されるとは、なんと不可解で象徴的な神話なのだろう。
 神々の物語を単なる空想お伽噺として片付けるのは簡単だが、歴史的事実を表象化したものだととらえれば、むしろ事実はシンプルな形で浮かび上がって来る。
 日本人のルーツは、神話の中にこそあるのだ。しかも歴史的事実として、である。私はそう確信している。
 姫姓の秘密とヒルコの系譜、──本書ではそれを解き明かそうとしている。
 しかもその事実は、驚くべき事にわが国の建国の由来をくつがえすような〝秘史〟を、私たちに覗かせてくれることになる。この国の歴史の根源に至る扉は、この系譜を辿ることによって初めて開かれるだろう。
(『ヒルコ──棄てられた謎の神』 河出書房新社 より)

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2019年1月25日 (金)

■石上神宮の祭神の秘密

■石上神宮の祭神の秘密
 本書『ニギハヤヒ』を上梓したのは二〇一一年であるが、その翌年、拙著『三種(さんしゆ)の神器(じんぎ)──〈玉・鏡・剣〉が示す天皇の起源』を上梓した。
 その際、宝剣の真相を解き明かす鍵となったのが韴霊剣である。
 すでに述べたように、石上神宮は布(フ)都(ツノ)御魂(ミタマノ)大神(オオカミ)を主祭神とし、布留御魂大神(フルノミタマノオオカミ)を配祀している(副祭神として祀っている)。
▼石上(いそのかみ)神宮(じんぐう) 奈良県天理市布留町三八四
【祭神】布(フ)都(ツノ)御魂(ミタマノ)大神(オオカミ) (配祀)布留御魂大神(フルノミタマノオオカミ) 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命(イニシキノミコト) 白河天皇 市川臣命(イチカワノオミノミコト)

 ご覧のように「フツ」が主で「フル」が副である。
 しかし当社は、古くは「布留社」と呼ばれていて、「布都社」ではなかったのだ。
 この事実はいったい何を意味しているのだろう。
 韴霊剣は、明治七(一八七四)年、当時の大宮司であった菅(かん)政友(まさとも)によって掘り出され、本殿に御神体としてあらためて奉安された。
 菅政友が発掘した埋納場所は「布留山(ふるやま)の麓の禁足地」であった。神宮の東にそびえる布留山は、神宮の神体山すなわち神奈備である。その麓に韴霊剣(布都御魂大神)が埋納されていたのはなにゆえか。
 もうおわかりと思うが、これは「封印」であろう。
  祟り神イタケル、すなわちニギハヤヒを布留山に封じたのだ。
 そして当社は、その祟り神を鎮魂するために設けられたものであるだろう。それゆえ、元々当初は社殿もないままに、布留山をひたすら拝するものであった。
 そしてはるか後に拝殿のみが設けられるが、信仰の本質は依然として変わらない。
 変わったのは、発掘の後、発掘した神宝を奉安するために拝殿の奥に本殿を設けてからである。それは大正二(一九一三)年に完成した。すなわち、つい最近のことなのである。
 したがって、現在の石上神宮の祭祀は、布留山を御神体とするものでありながら、その手前の山麓に設けた本殿において韴霊剣すなわち布都御魂大神を祀るという重層構造になっている。神体山の布留御魂大神を祀る古い信仰と、本殿の布都御魂大神を祀る新しい信仰が併存しているのだ。
 さしずめ、「古き祭神」と「新しき祭神」の二つの主祭神と言えるだろうか。
 ちなみに菅政友大宮司による発掘の時、小宮司であったのが、後に文人画家として有名になる富岡(とみおか)鉄(てつ)斎(さい)である。まだ三十代であったが、すでに万巻の書を読み、古今の学問に造詣深く、さらに書画をよくした。そして彼は、境内の榊の木を用いて、木製の写しを製作している。さしずめ「鉄斎の木彫」ということになる。美術工芸的価値もあるので、ぜひ展示していただきたいものだ。
ニギハヤヒ」増補新版
増補の章 ニギハヤヒとタケミナカタ──祖神と本宗家のゆくえ

 

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2019年1月24日 (木)

W主役の今年の大河、ブ男二人では視聴率は無理だろう!?

視聴者の半分は女性だからね~

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迷い

読者の方々は、私の著作に文学的情緒を求めることはないだろうう。
私の役割は、事実の積み重ねによって、真理を見出し提示することにある。
もし仮に、私の文脈に文学的要素が見えたとしたら、
それは私の迷いである。
な~んて偉そうに言ってますが、
実は、迷うのもけっこう楽しいものです。
↓ この本は、明智光秀の伝奇小説です。
来年の大河ドラマの副読本に、ぜひどうぞ。
天眼──光秀風水奇譚』 河出書房新社

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2019年1月22日 (火)

出雲大社は「下り宮(くだりみや)」である!

■「下り参道」は何を意味するのか
 出雲大社へお詣りしたことのある人は、参道が下り坂になっていることに気付いた人も少なくないと思う。これを「下り参道」、そしてその行き着く先に祀られる神社を「下り宮」と通称する。
 私も、出雲大社へ初めて参詣した時に、ちょっと驚いた。今から四十年近く前のことであるが、まだ当時は、「下り参道」にどのような意味があるのか、今のように議論がなされる前である。参詣者がどんどん流れ込んでくるように下っているのかな、くらいに思っていた。しかしその後、全国各地の神社を訪ねて、それがきわめて特異な形であることを嫌でも認識することになった。「下り参道」「下り宮」は、異常なのである。
 現在私が把握している限りでは、「下り参道」の神社は全国に十社ある。たぶん他にもまだあると思うが、それについての完全な調査資料はないので、統計もないだろう(ぜひ読者諸兄姉のご教示をお願いいたします)。
 以下、北から順に列挙してみよう。
▼一(いち)之(の)宮(みや)貫(ぬき)前(さき)神社 群馬県富岡市一ノ宮
【祭神】姫大神 経津主(ふつぬし)神
▽木(き)曽(そ)三(さん)社(しや)神社 (通称・木曽明神)群馬県勢多郡北橘村下箱田
【祭神】須佐之男命 彦火火出見命 豐玉姫命 宇氣母知神
▽玉(たま)置(き)神社(通称・玉置さん)奈良県吉野郡十津川村玉置川
【祭神】國常立尊 伊弉諾尊 伊弉册尊 (配祀)天照大神 神日本磐余彦尊
▽熊野本宮(ほんぐう)大社(通称・本宮さん)和歌山県東牟婁郡本宮町本宮
【祭神】家津美御子大神 素盞嗚尊 速玉之大神 伊邪那岐大神 事解之男神 伊邪那美大神 天照皇大神
▽薦(こも)神社(通称・大貞八幡(おおさだはちまん))大分県中津市大字大貞
【祭神】應神天皇 氣長帶姫命 田心姫命 湍津姫命 市杵嶋姫命
▼草(くさ)部(かべ)吉(よし)見(み)神社 熊本県阿蘇郡高森町草部
【祭神】日子八井命 比咩御子神 比咩御子命 天彦命 阿蘇都彦命 阿蘇都比咩命 新彦命 彌比咩命 速瓶玉命 若彦命 新比咩命 彦御子命
▽鵜(う)戸(ど)神宮 宮崎県日南市大字宮浦
【祭神】日子波瀲武(ひこなぎさたけ)鵜鵜(うかや)草(ふ)葺(き)不合(あえず)尊 (配祀)神日本磐余彦尊 大日靈貴 天忍穗耳尊 彦火瓊瓊杵尊 彦火火出見尊
▽速(はや)川(かわ)神社 宮崎県西都市大字南方字鳥ノ巣
【祭神】瀬織津比咩命 速開津比咩命 氣吹戸主命 速佐須良比咩命
▽聖(ひじり)神社(通称・聖(ひじり)大(だい)明(みよう)神(じん)社(しや))鹿児島県鹿児島郡三島村竹島18
【祭神】彦火火出見尊 豐玉姫
▼出雲大社
 概要略
「下り参道」には、そうであるべき意味がある。
 ただし、環境条件や祭祀内容によって意味は異なる。
 まず、はっきりしているのは、水神を祀る神社である。水辺に祀るか、あるいは湖や河川そのものをご神体や依り代として拝礼するのであれば、必然的に周囲から下ることになる。
 右に挙げた神社でも、熊野本宮大社は熊野川そのものがご神体であるから、その中州に社殿が設けられたのは理にかなっている。現在は山の上に本殿が鎮座しているが、明治になるまでは、その麓の熊野川の中州にあった。ところが近代になって山林の乱伐がすすみ、山の保水力が低下したことから明治二十二年に大洪水が起き、中州の社殿は流されてしまった。そのため、山上に社殿を新たに建設し、中州の跡地は大斎原と呼ばれる霊地となっている。
 また、薦神社は三角池(みすみいけ:古くは「御澄池」と記すこともある)そのものが内宮であるから、この地域において最も低い場所にあるのは当然である。
 玉置神社は鎮座地の地名が示すように川、鵜戸神宮はまさに海、速川神社は社名のとおり川、聖神社は祭神が示すように海というように、むろん、宗像三神や瀬織津比咩命、豐玉姫などの水神そのものを祀っているのも、その証左の一つであるだろう。右のリストで▽のものがそれに該当する。水神を祀るものは下り参道だからといっても、そこに宗教的・祭祀的に封印の意味はないだろう。
  これに対して、▼の三社は、地理的な要因を伴わないにも関わらず「下り参道」となっている。
 日本は山岳列島であるから、神を祀るにふさわしい場所を見つけるのはさほど難しいことではない。見上げる場所はそこかしこにあって、わざわざ低地に降りていって、見下ろすような場所に神祀りする必要は基本的にないだろう。そもそも神を見下すなどという姿勢は、神を敬う心とは相反するものである。事実、日本のほぼすべての神社が、そうではない場所に鎮座している。
 しかし、現にそういう神社が少数存在するのだ。
  これは、あえて低きに祀る祭祀法であろう。
 では、「下り参道」「下り宮」は何を意味するのか。
 一之宮貫前神社は、群馬の富岡にある。近年は富岡製糸場で知られるようになっているが、中世まで大和朝廷の支配の届かない外界であった。蝦夷の地であり、ヤマトタケルや坂上田村麻呂など、繰り返し東征をおこなっている。
 一之宮貫前神社は、その最前線。つまり、東の地の果てである。ここに経津主命が祀られているのは、もう一体の祭神である謎の神・姫大神を監視し、封じるためであろうと私は推測している。
  姫大神は、古来、神名は不詳である。一説に機織りの神である稚日女との説があって、製糸場を建設する際に都合良く利用されたが、江戸時代に発生した俗説である。
 一宮であることと、その規模や信仰の古さから、祭神はかつてこの地の大王、すなわち蝦夷の首長族長であったと私は考えている。それは、卑弥呼のような巫女王、女性祭主であったのではないか。大和政権はその霊威の祟りを怖れて、手厚く祀り、ここに封じたのだ。
 草部吉見神社は、阿蘇の古き神々を祀る。神武天皇東征の時に、高千穂から五ヶ瀬川に沿ってこの地に来た際に、池の大蛇を退治し、その池を埋めてここに宮殿を設けたとの伝説がある。
 しかしその伝説は付会、こじつけであろう。例によって、大蛇退治はこの地の蛮族の族長を討ち取ったとの意味であるだろう。
 下り宮になっていることに説明が付かず、池を埋め立てて宮殿を造営したことにしているが、そもそも遠征中の天皇の宮殿を設けるのに、わざわざ池を埋め立てる必要はないし、またそんな低湿地に故意に宮殿を設けなくとも、他にふさわしい場所がいくらでもあるだろう。
 つまり、ここに社殿が鎮座するのは、討ち取った族長の神霊が怨霊神・祟り神にならぬように封じるための呪術である。族長は、クマソタケル(熊襲建・熊襲梟帥)のことなのではないかと、私は推測している。
 以上のように、事例は今のところ右の二社のみであるが、「下り参道」「下り宮」にはこのような意味があると私は考えている。すなわち、怨霊神・祟り神の封印、慰霊鎮魂である。
 そして、出雲大社は、もう一つの事例である。
  延々と続く「下り参道」を下りきった谷底に出雲大社は鎮座する。
 つまり、出雲大社は地の果てに建てられたのだが、のみならず、谷底の湿地に建てられたのだ。この地は現在二本の川に挟まれているが、要するに川が氾濫すれば水浸しになり、おそらくは川の流れも時代によって移り変わるため、河川敷や中州のような地質であっただろう。このような地質の場所は、通常住宅が建てられることはない。神の住まいである神社となれば、なおさらであろう。
 にもかかわらず、そこに、出雲大社は建設されたのだ。
 もしこれが天皇の宮殿であったなら、このような土地に建設されることはありえないだろう。そもそも出雲の祖神であるスサノヲが初めて宮殿を構えた須我の地は、スサノヲみずから「すがすがしい場所だから、ここにしよう」と決めたという伝承がある。なのに、このようなすがすがしくない場所に大社は建築されたのだ。
(『オオクニヌシ 出雲に封じられた神』河出書房新社 第2章より)

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2019年1月21日 (月)

祇園祭りの祭神は「鬼」なのか?

京都の八坂神社といえば、日本最大級の祭りである「祇園祭り」が大祭です。
祭神はスサノヲですが、牛頭天王(ごずてんのう)と同体であるとされています。
牛頭天王とは、文字通り「牛の頭」をもつ神様ですから、
頭に日本のツノがあります。
てことは、スサノヲは「鬼」ということになりますよね。
そういえば、スサノヲの前半の経歴は、「鬼」というにふさわしいかもしれませんね。
なにしろ天津罪(あまつつみ)は、最大の犯罪ですからね。
地上に降りてからは、改心して「神」になったということですか。
「鬼」は「神」になる、という暗示ですかね。
京都の八坂神社には鬼が祀られているということかな?
鬼の神社、鬼の祭り。
祇園祭りは正確には「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」といって、
怨霊の祟りを鎮める祭りとして始まって、
延々と続いているわけですが、
いつのまにか、怨霊は鬼になったようですね。

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記・紀に登場しない富士山、秘められた謎を解く

 富士山は、実は『古事記』にも『日本書紀』にも、まったく出てきません。
 不二山、不死山、不尽山、福慈山など別名も含めて皆無です。
 存在したという気配さえもありません。 
 日本人なら、この「事実」に驚かない人はいないでしょう。
 日本および日本人の歴史・文化は「富士山と共にある」と思っているからですよね。しかも、それはまぎれもない「事実」だからです。
 富士山と共に歩んできた日本・日本人という事実と、記・紀に登場しないという事実──この矛盾、一体全体どうしたことでしょう? 何が起きたというのでしょう?
 富士山が現在のような美しい山容(姿形)となったのは、おおよそ一万年前とされているので、記・紀が成立した当時──八世紀には、日本国内ではあまねく知られていたことは間違いありません。
 そればかりか、海の向こうにさえもかなり古くからその存在は伝わっていたようです。おそらく紀元前に、すでに大陸沿岸部や半島には知られていたと考えられます。
 しかしなぜか、わが国の最古の史書である記・紀は完全に無視しているのです。
 記・紀が編纂された時代は八世紀ですから、「知らなかった」などとは到底考えられません。
 ということは、「知っていたのに記載しなかった」のでしょう。
 現に、同時代の歌を集めた『万葉集』には富士山が数多く歌われているのです。
 田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける
 
 ほぼすべての学校教科書に掲載されている山部赤人(やまべのあかひと)の歌です。
 ちょっと編集したものが『百人一首』にも入っているので、皆さんお馴染みですね。
 赤人は天平八(七三六)年頃に没したとされるので、それ以前の歌ということになります。
『万葉集』では、他にも数多くの歌に富士山は詠まれています。
 また、ほぼ同時代の養老年間(七一七~七二二)に成立した『常陸国風土記』には「福慈岳(ふじのたけ)」と記載されていて、富士山にまつわる神話が紹介されています。
 いずれも、当時の日本人が富士山の存在をよく知っていたという証しです。
 それなのに記・紀は一切触れていません!
『古事記』は七一二年、『日本書紀』は七二〇年の成立ですから、万葉や風土記と同時代なのに、です。
 これはいったいどうしたことなのでしょう。
 ヤマトタケルは、『古事記』は相模で、『日本書紀』は駿河で火攻めに遭遇して草薙剣で薙ぎ払って窮地を脱するという有名なエピソードが記・紀それぞれ語られます。しかし、どちらも富士山は出てきません。ヤマトタケルの視界にイヤでも入っていたはずなのに、です。
 富士山本宮浅間大社の祭神であるコノハナサクヤヒメは、オオヤマツミの娘として、またニニギの妻として記・紀ともに登場しますが、富士山との関わりは一切出てきません。
 いずれも、なんとも〝不自然〟ではありませんか。どちらも〝意図的に〟避けているとしか思えませんね。
 富士山の存在を認めさせる神社も各地にあって、しかもそれらは記・紀の編纂よりはるかに古くから鎮座しています。
 伊勢の内宮はその代表です。
 内宮は富士山を前提に設計されているのです(詳細は本文にて)。
 つまり富士山信仰はすでに古くからあったのに、記・紀にはなぜかまったく記載されていないということなのです。
 これはいったい、如何なる理由によるものでしょう。
 私はこの謎を突き詰めて行くうちに、解答は一つしかないのではないかと考えるに至りました。
 すなわち、富士山は「禁忌(きんき)」(taboo)であったのではないか、と。
 歌には詠まれても、また地方の記録には登場しても、「朝廷の史書」では触れることさえできない禁忌(タブー)であったのだろうということです。つまり「政治的禁忌(タブー)」あるいは「宗教的禁忌(タブー)」です(古代ではこの二つは一体で、「まつりごと」と総称します)。
 ヤマト朝廷には、富士山に触れてはならない重大な理由があった!──それが私の到達した解答です。そしてそれ以外にこの謎を説明することは不可能でしょう。
 公式の史書に初めて「富士山」が登場するのは『続日本紀』(七九七年成立)の天應元年(七八一)の条です。
『日本書紀』成立(七二〇年)から七十七年経っています。
 つまり、この間に「富士山の禁忌(タブー)」が解消されたということになります。
 この間に何があったのか、真相を知るには、それも大きな手掛かりです。
 ここであらためて指摘しておきますが、「フジ・サン」はヤマト言葉ではありません。漢語であり漢音です。
 もし富士山をヤマト訓みするのであれば「富めるもののふのやま」ということになるでしょうか。
 しかし「富士」は好字令(七一三年)によって選ばれた吉字ですから、「フジ」あるいは「フヂ」という発音がすでにあったということです。
 ただ、それがたとえ不二、不死、不尽、不知などの表記であろうとも、いずれも漢語であって、「fu-ji」という発音を基盤にした当て字ということになります。
 そもそも「フジ」という呼び名自体が漢語音であるとするならば、呼び名自体も新たに付けられたものであって、それ以前に土着の呼び名があったはずです。
 これだけの突出した山岳が聳えていて、呼び名の存在しないはずがないのですから。
 とすれば、古くは別の呼び名があって、ある時期に「フジ」という呼び名が与えられたことになります。
「フジ」山が禁忌とされた理由も、この辺りの事情に由来するのかもしれません。
 本書は、その「秘密」を解き明かすのが目的です。どうやらそれは、私たち日本人のルーツに関わる「秘密」でもあるようです。
 富士山が禁忌(タブー)であったとするならば、それはなぜか。
 また、その後、禁忌が解除されたからこそ、日本人のすべての人口(じんこう)に膾炙(かいしや)する(人々が口にするようになる)こととなるわけですが、どうして解除されたのか。そこに何があったのか。
「富士山の秘密」を探る手掛かりは各地の神社を始め、伝承にも文献にも実は秘められています。本書ではそれらを順次繙(ひもと)いて行くつもりです。
 ──さあ、あなたの知らない「富士山の秘密」へとご案内しましょう。
(『富士山、2200年の秘密』かざひの文庫 「まえがき全文」)

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2019年1月18日 (金)

評伝小説 「郭璞(かくはく)」 序章

「晋の政情が乱れたのは二代・恵帝の治世となってからであった。
 そもそもは初代・武帝が、皇太子・司馬(しば)衷(ちゆう)(武帝の長子)の暗愚を憂慮して強権政治をおこなったことに起因している。衷が即位して恵帝となった時には、武帝によって整えられた補佐体制が盤石で、ために傀儡(かいらい)と化していた。政治の実権は、武帝の皇后であった楊(よう)氏の一族が掌握した。
 しかしこれこそが治世混乱の元凶であった。
 以来、十数年間に亘る内乱となり、晋朝は瓦解する。いわゆる「八王の乱」である。
 その後、三代・懐帝の時代には匈奴の侵入によって洛陽を追われ、都を長安に移すこととなるのだが、すでにこの頃、晋朝の政権実体は失われていた。
 洛陽も長安も都に相応しい優れた地勢にある。その意味であれば、いずれが都と定めても甲乙は付けられない。
 しかし問題は、その前の都から、いつ、どの方角へ遷すのか、ということにある。時期と方角とがきわめて重要なのだ。
「地勢」は大地の相、そして「時期・方角」は天の相、である。
 この両方が合致して、初めて最良の選択が適う。
 遷都は、その究極の判断が為されなければならない。匈奴を恐れるあまり、時期も方角も見定めずにあわてて遷都することは、むしろ凶運を呼び寄せることになりかねない。
 そして此度の遷都は、時期も方角も天命天意にかなっていないのだ。──すなわち、最悪の事態を招くのだと、璞は予見した。
「わが上訴は帝に届かなかった」
 璞が慨嘆したのは、そのゆえの無念であった。
 懐帝は幾重にも重役に取り巻かれ、そのほかの者の声はすでに届かなくなっていたのだ。国は滅びの道へ大きく踏み出してしまった。璞の見立ては何の役にも立たなかった。もはや見捨てる以外になかったのだ。
 璞の見立てに従って行を共にしたのは五十九人、璞と合わせて六十人であった。
「われらは、円(えん)なる天の下、方(ほう)なる大地、そのすべてが故郷であり故国である」
 これは璞の本質的な思想であるが、行を共にした者たちがどこまで理解していたかはわからない。単に戦乱への恐怖心から璞の誘いに便乗した者もいたことだろう。それでも結果的にその決断は正しかったことになるのだが。・・・・」
(『郭璞「風水」の誕生』 河出書房新社 第一章より「旅立ち」)

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2019年1月16日 (水)

伊勢神宮は太陽信仰とは無関係である

 そもそも内宮の神は、鎮座地を求めて長年月、各地を巡った。そのために「元伊勢」とされる場所が各地に散在する。そして最終的に現在の鎮座地である五十鈴川の畔(ほとり)を選んだ。つまり、選びに選んでこの地に決定した。
 内宮がこの地に鎮座した時代、伊勢から富士を望める場所はすでによく知られていた。そのビュー・ポイントは、誰もがご存じの観光景勝地・二見浦(ふたみがうら)である。夏至の日には、夫婦岩の真ん中に見える富士山山頂から太陽が昇る。現代では富士山頂に輝く姿を喩えて「ダイヤモンド富士」などと呼ばれている様子が、ここでまさに拝めるのだ。
 つまり伊勢は、全国に数ある富士山のビュー・ポイントの中でも、ひときわ人気の一つなのである。
 内宮の創建に携わった倭姫命(やまとひめのみこと)は、夫婦岩の間に見える富士山の姿に感動して、二度ふりかえって見たと伝えられる。その由来によって二見浦という地名が付いたとされる。伊勢から見える富士山は、それほどに感動的だ。
 なのに、内宮(皇大神宮)は富士山が見えない位置に建設された。
 内宮の神は、富士山を見たくなかったかのように。あるいは見せたくないかのように。つまり、天照大神にとって富士山は禁忌(タブー)、なのだ。さらにいえば、富士山頂に赫奕として昇る太陽を見せたくなかったということではないだろうか。倭姫命は二度見するほど感動したにもかかわらず、案内した場所はそこから死角になる谷間であった。この事実は、少なくとも内宮(皇大神宮)は太陽信仰ではないと示すものではないだろうか。
(『アマテラスの二つの墓』河出書房新社「神宮は太陽信仰ではない」より)

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2019年1月15日 (火)

『三種の神器』(河出文庫)序文

 
  三種の神器についての「いかにも真相めいた言説」の一つに、「平家滅亡の時、壇ノ浦に沈みオリジナルは失われた」というものがある。今年はNHKの大河ドラマが『平清盛』であるために、さらに流布されるかもしれない。
 それでは事実は、どうか。
 源平合戦の終幕、安徳天皇はわずか八歳(数え歳)で入水という悲劇の最後であった。そしてその際に、三種の神器のうち八咫鏡(やたのかがみ)は船上御座所にあったが、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉とは二位尼が携行して帝と共に海中へ失われたと伝えられる。そして、曲玉は木箱ごと浮いたためすぐに回収されたが、剣は海中に没して二度と発見されなかった。──これは事実であろう。
 しかし、そのはるか昔、第十二代・景行天皇の時に草薙剣(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))は熱田社に御神体として納められており、宮中に置かれていたのは「写し」あるいは「分身」である。本体(オリジナル)ではない。
 それは鏡も同様で、八咫鏡は伊勢の内宮(ないくう)(皇大神宮(こうたいじんぐう))に第十一代・垂仁天皇の御代に遷座して以来変わらずに鎮座している。宮中賢所(かしこどころ)に祀られるのはやはり「写し」あるいは「分身」である。すなわち平家が持ち出したものはそれである。
 唯一「玉璽(ぎよくじ)(八尺勾璁(やさかのまがたま)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま))」のみ本体が宮中にあるとされる。
 なお、剣と玉璽は天皇の行くところ常に携行するもので、これは現在に至る皇室の慣習で「剣(けん)璽(じ)御動(ごどう)座(ざ)」という。
 この慣例は日本神話に由来するとされるが、いささか異動があるので詳細は本文で明らかにしよう。また、剣璽御動座のために携行される玉璽が本体そのものであるかどうかについても後述する。
 ──という次第で、三種の神器の本体は今も変わらず無事である。どれ一つとして失われたものはない。どうぞ怪しげな流布説に惑わされぬように。
 すなわち──、
▼八坂瓊曲玉の本体は東京・宮中に鎮座
▼八咫鏡の本体は伊勢・皇大神宮(内宮)に鎮座
▼草薙剣の本体は名古屋・熱田神宮に鎮座
 これが事実である。
 冒頭に示したような説は、すべて「写し」または「分身」において起きた事件を元にしている。
  なおこれについても一部に「フェイク」や「レプリカ」と呼ぶ例があるが、必ずしも相応しいとは言えないだろう。フェイクには模造・偽物という意味合いもあるが、「写し」「分身」はあくまでも本体との連結を保証するものであって、本物に準ずる。その意味ではレプリカ(複製)のほうがまだしも実態に近いかもしれない。私自身も、これまでの著書の中で分かりやすさを訴求するために使ったことがある。
 しかし、これとても正確ではない。実は、鏡も剣も、本体と同じ姿であるとは限らないからだ。皇室祭祀に「三種」が必要であるために、失われたり毀損したりした場合には補充補填しているのだが、それは新たに複製を造るのではなく、収蔵品(ストツク)からピックアップしている(古き時代には模造したこともある)。そしてその時選ばれたものが、本体と同じ姿であるとは誰にも確証はない。
 よって、「分身」と呼ぶのが妥当であろう。歴史的には他にも様々な呼び方がされているが、本質的な意味を重視するならこの他に「御霊代(みたましろ)」「形代(かたしろ)」等と呼ぶのも良いだろう(正しくは「本体」さえもアマテラス神の御霊代であり形代である)。
 それでは「本体」は、はたしてどのような姿をしているのか。天皇でさえ見ることはないとされる「本体」は、原則的に誰も知る者はないことになる。
 しかしその姿をしのぶよすがはないわけではない。
 そもそも神器の名称が形状を示唆しているし、記・紀の記録以来、実見の証言や各種の伝承など、手掛かりはいくつかある。そしてそれらを手掛かりに、本書ではありのままの〈姿〉に迫っている。
 それにしてもなぜ〈姿〉に迫るのか、天皇も見ることができないとされる神器の〈姿〉を明らかにして何の意義があるのか。それは不敬ではないのか。──その問いに答えよう。
 たとえば八咫鏡がもし舶載の漢鏡(漢代に製造された銅鏡)であるならば、それが何者によってどのような経路で宮中に入ったのかを知ることで、きわめて重大な事実が明らかになるだろう。
 あるいは、もし国産の仿製鏡(舶載鏡の複製)か和鏡(日本オリジナル)であるならば、神器の起源はさほど古くないことになる。とくに鉄製の鏡であるならば銅製よりも実用的であるが、時代はより新しい。そしてその起源はかなり具体的に特定できることになる。
 いずれにしても、その姿を明らかにすることは、これまで万巻の歴史書が書き連ねて来たすべての事柄の源流を知ることである。当然と言えば当然だが、それを解析して行くと、天皇という存在の本来の意味が明らかになる。ひいては、日本および日本人の「血脈」が明らかになってくる。これこそは本書の目的である。
  なお、宮中祭祀には「三種」揃うことが不可欠である。とりわけ、皇位継承の祭儀においては大前提となる。三種の神器こそは、古来「皇位」すなわち「天皇という唯一無二の地位」の「保証」であるとされる。
 ということは、三種の神器が揃わなければ、天皇たりえないということだ。一つでも欠けていれば、正統性を得られない。日本史上「二つの朝廷」が存在した南北朝も、三種の神器を護持していた理由のみによって南朝こそが正統であると、明治天皇によって公式に追認されたのもその証しである。
 ただ、右に記した通り、宮中の鏡と剣は「分身」であるから、祭祀王として践祚(皇位につく・天皇になる)すれば、いわば〟自動的に〝本体も継承したことになる。宮中三殿はもちろん、伊勢の神宮も熱田神宮も、祭祀王たる天皇の支配下となるからだ。「分身」は、あくまでも宮中祭祀のためのものである。ということは、南朝が護持していた三種のうち、掛け替えのない神器は玉璽のみであったことになるだろう。
 つまり、ことは「皇位の保証」に関わってくるのだ。これほどに「重要な物品」が、他にあるだろうか。金銀宝石などは単に物理的な評価にすぎないが、これら「三種」にはまったく次元の異なる価値がある。その尊さは何ものとも比較しようがない。そもそも三種の神器は、三種類の「神器」であって、単なる道具でもなく、単なる表象でもない。三種の神器は、「神の依り代」なのである。このことを、ほとんどの研究は忘れている。
 玉、鏡、剣をいくら即物的に研究しても、それは即物的な探求にすぎなくて、どこまで行っても「神器」の真の研究にはならない。
  たとえば神器と似て非なるモノと比較してみよう。
 研究者によってしばしば持ち出されるのは西洋のレガリアだ。レガリア (regalia/ラテン語)とは、王権など高い位を象徴するもので、それを持つことによって正当性の保証とする。西欧では王冠や杖など、古代中国では印璽などをもってそれとした。
 しかしレガリアには「宗教的保証」はない。レガリアは、王権の証しであるが、地位の標識であるにすぎない。
 一方、日本の神器の第一の意義こそは「宗教的保証」であって、国家祭祀はこれをもっておこなう。これが、日本の三種の神器と西洋のレガリアの決定的な差異である。
 そして、私たち日本人の祖先たちは、これら「三種」に「神性」を見出した。神話に記されているから神器としたのではなく、神の御霊代・依り代であったから神器・神宝になったのであるだろう。何故に御霊代・依り代となったかは、これも本文に譲る。
 天皇は、神宝である「三種の神器」を継承することによって、天皇であることを保証される。この〟制度〝は、少なくとも一三〇〇年前には現在の形が成立していた。
 それにしても、なぜ「三種」なのか。
 それぞれにどのような意味があるのか。
 由来するとされる神話との関わりは、また史実との関わりは。
 本書は、これらの真相を解き明かすために、三種の神器に先立つ神宝、ニギハヤヒの「十種神宝」、また盗難や行方不明説にも切り込んで、「天皇の保証」に迫る。いま再び「天皇とは何か」が問われる時に、本書はその存在の根底を解き明かそうという試みである。
 天皇即位にあたって代々継承されてきたかけがえのない宝物──八坂瓊曲玉、八咫鏡、草薙剣の三種は、いまもなお厳然たる〟神秘〝として日本文化の根源に存在する。わが国の歴史において、それがいかに重視尊重されてきたかは、多くのエピソード、伝説が示唆している。
 たとえばスサノヲがヤマタノオロチの尾の中から見出す天叢雲剣、崇神天皇に祟る八咫鏡、そして伊勢・五十鈴川畔に辿り着くまでの長い旅路、ヤマトタケルが危地を脱する草薙剣、しかし天武天皇に祟る草薙剣、あるいは平家滅亡に伴われた神器、義経が後白河上皇に渡した神器、南北朝や明治維新での奪い合いから、進駐軍の接収計画──等々。歴史の節目は、三種の神器と大なり小なり関わっていたとさえ言えるかもしれない。
 玉、鏡、剣という三点のキー・ワードは、日本文化を理解する重要なポイント、あるいは視点であるだろう。日本史から「神器」を消すことはできないし、日本文化から「神器」を消すこともできない。そして三種の神器が秘めている思想は、日本人のアイデンティティに直結しているのだ。私たちが今、ここにいてこうしている必然が三種の神器にあると言っても過言ではないだろう。もしも三種の神器がなかったら、これまでの日本史、現在の日本文化はよほど違ったものになっていただろう。
 しかし、「三種の神器」をタイトルとした書籍・類書は実はきわめて少ない。「電化製品の三種の神器」「ビジネスマンの三種の神器」等という使われ方では目にすることが珍しくないにも関わらず、いまや日本人の常識・基本知識から「三種の神器」は欠落してしまったかのようだ。本書は、あらためて「根源」に焦点を当てることで、日本および日本人のアイデンティティを明らかにしよう。
 

『三種の神器』目次
第一章[八咫鏡]──アマテラスが命じた「同床共殿」
      
第二章[草薙剣]──天皇への祟りから、英雄の佩刀へ変貌する流転の秘宝
第三章[八坂瓊曲玉]──唯一、宮中にとどまり続ける究極の秘宝
      
      
第四章[神器の起源]──五〇〇〇年前の源流
      
      
第五章[現代の神器]──昭和天皇が守ったもの
(『三種の神器』河出文庫 序)

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「民族信仰」の重視を

「ひと昔前までは、「民俗学」を評して「日付のない学問」として歴史研究の範疇に入れないという悪弊が歴史学会を支配していたが、今そのようなことを声高に唱える者はまさかいないだろう。同様に、「民族信仰」も歴史研究では軽視されて来たが、実はこの視点・解明なくして歴史研究などありえないのだと近年では広く認識されるようになった。」(『諏訪の神』まえがきより)

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2019年1月12日 (土)

同業者とは交流しない

Hawaii028

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2019年1月 3日 (木)

新たな発想と、新たな知見──それが私の仕事だ

概観するのは私の役割ではない。
そういうことに取り組んでいるひとは少なからずすでにおられるし、
それは地道な学術的成果を常に訴求しなければならないひとたちの仕事であろう。
私の役割は、概観ではなく深堀りである。
定説にとらわれない新たな発想と、それによる新たな知見の発見である。
これこそが私に与えられた私独自の仕事である。
既存の知見に常に懐疑をもって対して行くのが、私の基本姿勢である。
先人の継承や定説の反復は私の仕事ではない。
またそのような作業に興味もない。

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