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2015年7月19日 (日)

藤ノ木古墳の被葬者は誰か?

 

 飛鳥・藤ノ木古墳の発掘調査で判明した画期的な考古学的発見を紹介しよう。

「藤ノ木古墳 花粉が語る被葬者像 穴穂部皇子と宅部皇子か──供花に夏のベニバナ、6月暗殺符合

 金銅製の冠など豪華な副葬品の発見で知られる奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(国史跡)の石棺に納められた2人の被葬者が、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部(あなほべの)皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部(やかべの)皇子の可能性が極めて高いことが、石棺から出土した大量のベニバナ花粉の研究で分かった。夏に咲くベニバナが死者を弔う供花として納められたとみられ、日本書紀が記す587年6月の暗殺時期と一致した。石棺に残されたミクロの花粉が、被葬者像を絞り込む興味深い成果として注目される。
 同古墳は直径約50メートルの円墳で、石棺は盗掘を受けておらず、昭和63年の発掘調査で金銅製の靴やガラス玉で装飾された大刀、2人の被葬者の人骨などが埋葬当時の状態で見つかった。
 石棺内からは、大量のベニバナの花粉を検出。当初は被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡ともみられていたが、金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)の研究で、染料にすると花粉はほとんど残らないことが判明。石棺には、ベニバナの生花が供花として納められている可能性があることが分かった。
 ドライフラワーが入れられた可能性も残されているが、生花だったとすれば被葬者は夏に埋葬されたことが確実で、昭和63年の同古墳調査を担当した前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は、被葬者は587年6月7日に殺害された穴穂部皇子(生年不明)と、翌日に殺された宅部皇子(同)と推定する。
 前園教授は考古学的見地からも、副葬品の金銅製靴は本来は六角形の文様で統一するところを、一部が五角形になるなど製作ミスがある▽石棺の加工が粗い▽遺体の骨同士が結合したまま出土しており、死後間もないころの埋葬──などの点を列挙。「被葬者は不測の事態で死んだため、古墳や副葬品を急遽(きゅうきょ)つくった可能性が高く、2人の皇子が死んだ状況と矛盾はない」と指摘している。」(二〇〇八年十一月一日 産経新聞大阪朝刊 総合一面)

 藤ノ木古墳は、法隆寺のすぐ裏手(西側)三〇〇メートルほどのところにある。昭和六十三年に、橿原考古学研究所がファイバースコープにより石棺内調査を実施。これによって奇跡的にも未盗掘であったと判明した。それだけに、タイムマシーンのように千数百年の時を超えて、埋葬時の数々の「情報」が現代に届けられたことになる。
 石棺内に納められていた青銅鏡や大刀など、豪華な副葬品の数々は、平成十六年に国宝に指定。石棺の周囲には、象や鳳凰などを透かし彫りにした馬具も見出されている。
 石棺に納められている人骨から、被葬者は一人が二十歳前後の男性、もう一人は二十~四十歳の男性とされる。つまり、男性二人が一緒に埋葬されているということで、これもきわめて異例のことだ。この点からも、何か特別な事情があったものと判断せざるを得ない。(『怨霊の古代史』河出書房新社 より)

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