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2015年3月28日 (土)

なぜ「中国の歴史書」で日本の古代史を検証するのか

 日本の古代史を検証するのに、もっぱら中国の文献資料に頼るのはどうしたことかと思っているひとも少なくないに違いない。かくいう私も、かつて歴史を学び始めた頃にそう思っていた。日本の歴史なのだから、まず第一に日本の資料を精査すべきではないか、と。
 しかし残念ながら日本の文献資料(歴史書)には八世紀以前のものがない。最古の文献が『古事記』で712年、『日本書紀』で720年である。残念なことにそれ以前のものはすべて失われてしまった。手掛かりになるものは、「考古学資料」しかないのだ。
 なお、隣国・朝鮮の文献はさらに頼りにならない。『日本書紀』に参考文献として書名の上がっている「百済三書(「百済記」「百済新撰」「百済本記」の総称)」が失われたのは残念なことだが、それ以前には文献はなく、それ以後もない。現存する最古の歴史書は『三国史記』で1145年成立であるから、まったく参考にならない。韓国朝鮮は、むしろ日本の文献によって自分たちの古代事情を学んでいるありさまだ。
 ところが中国には、はるかに古い歴史書がいくつも存在する。とはいっても一般読者には『三国志』くらいしか馴染みがないと思うので、ここで簡単に紹介しておこう。『史記』に始まる歴代の歴史書を総称して「二十四史」と呼ぶのだが、日本の古代史に関わりが深い唐代以前の一五書を列挙しておこう。書名の後に編纂者名、成立年を付した。

『史記』司馬遷 紀元前91年
『漢書』班固 82年頃
『三国志』陳寿 紀元290年
『晋書』房玄齢・李延寿 648年
『後漢書』范曄 445年
『宋書』沈約 490年頃
『南斉書』蕭子顕 537年
『梁書』姚思廉 626年
『陳書』姚思廉 636年
『魏書』魏収 554年
『北斉書』李百薬 636年
『周書』令狐徳フン 636年
『隋書』長孫無忌 656年
『南史』李延寿 659年
『北史』李延寿 659年

 すでに紀元前に『史記』が成立しているというのは驚くべきことで、『古事記』より800年以上も前である。
『漢書』でも82年頃成立だから、650年近く以前だ。
 しかも重要なことは、これらのほぼすべてに、日本と関わりのある記事が記されているということだ。
 ここに挙げたものは中国の正史、すなわち国家によって編纂された歴史書であるが、これ以外にも『論衡』『山海経』『翰苑』などがある。それらもやはり記・紀より古く、そして日本(倭人・倭国)についての記述がある。
『漢書』および『論衡』は、ともに一世紀に成立した文献であるが、すでにその時代に「倭人」「倭国」との認識が見える。始まりはいつ頃か判然しないが、少なくともこの直前の時代、つまり周王朝(紀元前1046年ごろ-紀元前256年)の時には「倭」と呼ばれていた(あるいは名乗ってもいた)と確認できる。
 わが国が「倭」から「日本」へ呼称を代えるのは八世紀のことであるから、おおよそ一千年間は「倭」と呼ばれていたということが、中国の歴史書からわかる。そして同時に、当初から江南地方(呉越地方)と往来交流があり、とくに関わりがあったことをうかがわせる。

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2015年3月 5日 (木)

鎮守の森と愛国心-----里山を懐かしく思う日本人の心情について

■懐かしきふるさと

 

多くの日本人が、懐かしく想う風景がある。

  小川を挟んで田畑が広がり、そこに点在する人家、そして田畑の真ん中のこんもりした森の中か、小高い山の麓には神社、すなわち鎮守(ちんじゆ)の森がある。いわゆる「里山(さとやま)」の風景である。

「村の鎮守の神様の きょうはめでたいお祭り日」

と唱歌に歌われたのはこの里山のある一日のものだ。

幼い頃に里山で遊んだ記憶は、いまや少数派になりつつあるのかもしれない。しかし依然として里山の風景は、日本人の心の故郷であり、いわば原点である。私たち日本人は、この風景を想う時、切ないほどの慕情(ぼじよう)を掻き立てられるだろう。

それにしても、なぜ私たちは里山をかくも懐かしく思うのか。実はそこにこそ、日本人の愛国心の秘密がある。

里山の風景は、実は自然にできたものではない。過疎地の行く末を見れば一目瞭然だが、住む人がいなくなると、たちまち荒れ果てて、見るも無惨な状態になる。

里山は日本人が長い年月をかけて造り上げた風景である。そしてそこに暮らす人々によって、絶え間なくメンテナンスされていればこそ、その「懐かしき姿」を保ち続けているのだ。

私 の叔父が終戦時に帰還する際、船が日本に近づくにつれて黒々とした陸地が遠望されて「ああ、日本へ帰って来たのだ」としみじみ感じたという。そう、日本の 陸地は森林で覆われているので遠望すると「黒々と見える」のだ。それに比べて中国大陸や朝鮮半島はほとんど樹木がない(今は地域によっては植林がおこなわ れているところもある)。ことごとく刈り取られてしまって、いわば〟禿げ〝状態であったという。刈り取った後に植林をせずに放置すると、いわゆる「砂漠 化」が出来する。

日本人は樹木を切った後に必ず植林するが、中韓ではそれをおこなわず、砂漠化が進んだ。彼の地は、船上から遠望すると白茶けて見える。これに対して日本の植林はすでに縄文時代からおこなわれており、中韓とは決定的に異なるところだ。

現 在確認できる日本の森は、九十九パーセントが植林によって人為的に造られたものだ。手付かずの原生林は日本列島にはわずか一パーセントしかない。つまり、 この風土は、私たちの先祖が長年かけて造り出し維持し続けて来たものなのだ。わが懐かしき里山の風景も、そうして生み出され保たれている。

そ して里山の中心には、必ず鎮守の森、すなわち神社がある。氏神(うじがみ)神社や産土(うぶすな)神社こそは里山の中心だ。人々の生活サイクルは神社を中 心にして営まれるのが古くからの形である。このうちに「いかなる神」のおわすかは各地様々であるが、そこに暮らす人々を見守る「神」が鎮座する。随神道 (かんながらのみち)とは、こうして継承されてきた「古くて新しい暮らし」のことである。

 

■共存か、対立か

 

日 本では自然環境と融和調和するという生活観が古くから根付いている(近年はそうとも言いがたいが)。そしてそれが「借景(しやつけい)」や「庵(いお り)」の考え方の基本になっている。すなわち庭の彼方に望む山や森も連続する風景として取り込んでしまうし、庵は建物そのものが自然の中に同化することに その存在理由がある。

この思想は民家にも生きていて、「木と紙の家」という表現に集約されているだろう。有機物を素材として、しかも加工を 最小限にする。その結果として組み立てられた「家」が本来の素材の力と素朴な建築構造によって「呼吸」するから、夏の湿度にも、冬の乾燥にも対応すること ができる。障子を開け放てば外も内も一体であるし、立てきっても虫の声や風の音は遮らない。風土がもたらすものは温度も音色も匂いさえも日本人にとっては 「恵み」なのである。

ところがヨーロッパでは、人間は大自然と「対立する」存在として考えられてきた。すなわち自然を征服するところに文明 や文化が生まれ、また自然と隔絶した空間を生活の場として求めることになる。だから住居は石やレンガで建造し、厚い壁で外気を遮(さえぎ)る。屋外に広が る大自然はあくまでも「脅威」であり、時には「災い」をもたらすものであって、そのようなものから自らを守らなければならないのだ。すなわち「森には魔物 が棲んでいる」のである。

しかし日本では、「森(杜)には神が住んでいる」もしくは「神が降りてくる」とされている。これが「鎮守の森」の思想である。これを「神籬(ひもろぎ)」という。

神と共存するか、魔物と対立するか、これほどに異なる日本とヨーロッパとの自然についての考え方は、「木」の扱い方にも端的に表れている。

ヨー ロッパでは建材や家具材には主に広葉樹(カシやナラ)が使われ、日本では針葉樹(ヒノキやスギ)が使われてきた。この材質の違いが塗装文化と白木文化の違 いになっている。広葉樹は削っただけでは荒い肌合いで、しかしニスやペンキで塗装すると美しくなる。しかし針葉樹は白木のままで滑らかな美しさをもってい る。また、ヨーロッパでは湿度対策が不要であったことも塗装文化形成のもう一つの要因であるだろう。乾燥した風土と寒気から守るための密閉空間では木材も 石や金属と同列の建築資材の一つとして扱われる。

ちなみに常緑の広葉樹(シイやカシ、クスノキ)は葉の表面にツヤのあるものが多いことから「照葉樹林」とも呼ばれ、日本では西日本全域から関東の沿岸部において森を形成している。神社の「鎮守の森」は元はこれらの照葉樹林をいう。

ま た、落葉の広葉樹(ブナやナラ、クリ、クヌギ)は北方系であり、日本では北関東以北に分布しているが、同時に関東の内陸部(たとえば武蔵野の林)や山間部 にも多い。〟落葉〝であるから、散る前に紅葉し、春先には新緑が鮮やかに芽吹く。このような落葉広葉樹の四季の変化は日本文化を特徴付けた一つの要因でも あるが、共存するのは関東くらいであるというのは興味深い(京都は長年かかって人工的に共存させた)。

 

木造家屋の長所の一つに、湿度の調節があることはよく知られている。たとえば正倉院は御物を一三〇〇年もの長きに渡って保管してきたことで知られるが、その理由は木造の校倉造(あぜくらづくり)にある。日本で弥生時代に始まった倉庫の建築様式だ。

日 本では縄文時代から木が建材の主役として使われていたことは最近の遺跡の発掘でもよく知られるようになったが、当時の製材法は現在のものと異なっている。 私たちが知っている方法は鋸で木の細胞を断ち切るものだが、かつては鋸は使わず、楔(くさび)を繊維に沿って打ち込んで裂いたり割ったりする方法「割木工 (わりもつこう)」が行われていた。法隆寺や正倉院の製材もこの方法で、室町時代に中国から鋸が持ち込まれるまで、少なくとも千年以上に渡って日本ではこ の方法が行われてきた。

割木工は木を割ってからヤリガンナやチョウナで表面を加工するものであるために、本来の木の繊維がそのまま生かされ ている。したがって強度が高く、側面からの腐食にも強いという特徴がある。古い建物のむき出しの梁などに木皮をはがしただけのような曲がった一本木が使わ れているのを見たことがあるかも知れないが、きわめて理に適ったものだ。木の個性を無視して鋸で均一に切断された材木よりもはるかに丈夫で寿命が長い。

し かし割木工は手間がかかる。今でも行われているのは宮大工による寺社建築のごく一部を除けば、扇子や桶、割り箸くらいのものだろう。ちなみに割り箸の根も とが割り残してあるのは初めて使われる新しい箸であることの証明で、日本人ならではの清潔観から来ている。世界中いかなるところにも割り箸のような文化は 存在しない。

 

■遷宮は「よみがえり」の思想

 

「ヨー ロッパは塗装文化」と先に述べたが、日本の伝統建築にも塗装文化がない訳ではないのはご存じの通りである。大改修で知られる京都薬師寺の鮮やかな彩色は、 むしろ当初の姿に忠実であり、寺院建築の多くは元々極彩色である。それが時を経て剥落あるいは退色し、そのまま新たに塗り直すことをしなかったために白木 造りであると勘違いされているものも数多い。これに対して、インドや中国の伽藍があたかも新品のように鮮やかに彩色されているのは絶え間なく塗り替えるか らである。

日本の歴史的建築物は二つの傾向にはっきり分かれる。おおまかに言えば、大陸渡来の影響を受けたもの(あるいはその系統)は彩色 されて、古来より独自性が強いものは無彩色=白木であると言えるだろう(あたかも土着を装わんがために白木を取り入れたり、その逆で、大陸文化へのへつら いで彩色されたものもある)。

また、神社建築も朱塗りと白木に分かれている。代表的な朱塗りの神社には厳島神社や宇佐神宮があり(ともに社 殿は国宝)、白木では何と言っても出雲大社と伊勢の神宮に尽きるだろう。朱塗りは大陸(中国)の様式を取り入れたものであるが、白木は固有のものと考えて 間違いはない。建築様式も出雲大社は古代の住居をかたどっており、伊勢の神宮は倉をかたどっているというのが定説である。どちらも高床式で、千木(ちぎ) 鰹木(かつおぎ)を戴くという日本固有の様式である。

とりわけ伊勢の神宮は、二〇年に一度建て替える「遷宮(せんぐう)」で知られるように、日本独特のものである。今年がまさにその年にあたることは読者もご存知の通りである。

この造営に要するヒノキは約13,600本。主に木曽から切り出されるが、伊勢にも広大な森を所有し、遷宮のための管理を徹底している。私も神宮研修の際に義務として枝打ちを行なったが、広大な森はそれだけで神韻(しんいん)縹渺(ひようびよう)たるものがある。

遷 宮が二〇年に一度行なわれるのにはいくつかの理由があるが、なかでも「建築技術の継承」という点での意義は大きい。世代格差を考えれば、まず若くして補佐 役として習い、二〇年後には熟練技術者として中心的役割を果たし、さらに二〇年後には指導する立場になる。ちなみに造営のピーク時には約一〇〇人の宮大工 が全国から集まり、終了時にはその中のとりわけ優秀な人材を一〇名残してチームは解散する。一〇名は神宮の数多い摂社末社等の修理を行いながら鍛錬し、次 の造営では棟梁となる。この永遠循環システム、組織が出来上がっているのである。しかもこれをすでに六一回、一三〇〇年に渡って継続している。文化の継承 という意味でも世界に例を見ないものだろう。

ただ、最近報道されているように、遷宮の主要な木材を調達する木曽のヒノキ(国有林)が近年に なって乱伐されて危機に瀕している。一三〇〇年もの間連綿と継続してきた日本人の智恵が、私たちの世代で途切れるというのはいかにも無念である。しかし国 内の木材事情は確実に悪化していて、それは今に始まったことでもないようだ。現在世界最大の木造建築物は東大寺大仏殿であるが、これは元禄時代の再建で、 創建時の六割(間口)に縮小されたものだ。しかも柱は、丸太を芯に周囲に材木を張り付けて、それをさらに継いだものである。ところが奈良時代の創建時には 直径一メートル、長さ三〇メートルという一木柱が八四本も使われていたと記録にある。かつては日本国内でもそれだけの木材が調達できたのである。ちなみに その時の木材は滋賀から切り出されたものであった。

なお、すでに『日本書紀』の神代編で、木材の用途が記されている。素戔嗚尊(すさのおのみこと)がヒノキ、スギ、クスノキ、マキを生みだし、「ヒノキは宮殿に、スギとクスノキは舟に、マキは棺に使え」と言っている。

  すなわち、ヒノキで造られた神社建築とは神々の宮殿であって、その最高至高の存在が伊勢の神宮である。そして皇太神宮(内宮)には、天皇の祖先神(皇祖)たる天照大神が祀られて、国家鎮護の御社となっている。

 

■鎮守の森の喪失は、愛国心の喪失

 

明治以前は、こうした里山と鎮守の森という在り方が日本の風景の標準であった。

と ころが明治三十九(一九〇六)年、「府県社以下神社の神饌幣帛料供進に関する件」が発令された。これがいわゆる「神社合祀令」とされるものである。これに よって多くの神社が他社に合祀され、跡地の鎮守の森は失われて行った。神籬であった巨樹巨木は切り倒されて売り払われ、境内地も失われた。しかもその売上 を担当の役人が寄ってたかって着服していたというのだからあきれるほかはない。全国でそれまで約二〇万社あった神社は、一二万社にまで激減した。とくに甚 だしかったのは三重県で、約九割が廃された。これに次ぐのが和歌山県で、それまで三七〇〇社あったものが七九〇社にまで減らされている。

これに歯止めを掛けたのは博物学者・南方熊楠であった。

神 社合祀反対運動に立ち上がり、長文の「神社合祀に関する意見」には激越な反対論が述べられるとともに、鎮守の森がいかなる意義を持っているのか、なぜ廃し てはならないのかを、自然の生態系、人間の精神文化、地域の社会的影響等の視点から指摘している。そして、こう述べている。

「神社合祀は愛国心を損ずることおびただし。愛郷心は愛国心の基なり」

 

田 辺市の天神崎は、日本のナショナル・トラスト運動の発祥地として知られている。ここは熊楠の散歩道であったが、美しいがゆえにリゾート開発の餌食になりつ つあった。長女の南方文枝氏(南方熊楠記念館初代館長)によれば、驚くべきことに「将来ここを不動産業者が買って破壊するだろう」と熊楠は言っていたとい う。

和歌山でも北と南ではかなり違う。田辺から那智、新宮までの紀南を総称して熊野というが、かつてここは西方浄土にもなぞらえられて、都 からの参詣が絶えなかった地域である。熊野三社(本宮、速玉、那智)の御神体がそれぞれ川、巨石、滝であるように、素朴な自然信仰に発しており、鬱蒼たる 神々の森が保持されている。この熊野の森こそが、熊楠の原点なのである。

熊楠が昭和天皇をご案内したことで知られる田辺湾・神島(かしま) の原生林は天然記念物に指定されてかろうじて守られている。昭和四年、熊楠は鹿島をご案内申し上げ、御進講を行なったが、その際粘菌の標本をキャラメルの 空箱に入れて贈ったエピソードは有名だ。その二年後、南方熊楠の歌を刻んだ記念碑が立てられた。

「一枝もこころして吹け沖つ風わがすめろぎのめでましし森ぞ」

熊楠にとって、尊皇と愛国は一体であった。

熊楠没後の昭和三十七年、再びこの地を訪れた昭和天皇は、熊楠を懐かしんで歌を詠んだ。

「雨にけぶる神島を見て紀伊(き)の国の生みし南方熊楠をおもふ」

 

■よみがえれ、愛国心

 

わ が国屈指の鎮守の森・明治神宮が創建されるのは、大正九(一九二〇)年である。造営は大正四年から始められるが、約七〇万平方メートルにも及ぶ広大な森 は、そのほとんどが全国からの献木と勤労奉仕によってまったく新たに造り上げられたものであって、これぞ愛国心のなせるわざというものだろう。それからま もなく一〇〇年が経とうとしているが、私たちに果たして同じことができるだろうか。

全国的にも鎮守の森の現状はかなり厳しいと言わざるを得 ないだろう。とりわけ都市部では、地価の高騰による土地の活用という名目で、社殿が裸同然にされているところが少なくない。本殿の背後は駐車場に化け、境 内にも参集殿と称するビルが犇(ひし)めいている。神の依り代たるべき神籬が失われ、境内地の都市化はまるでどこかの国の〟砂漠化〝のようだ。

  里山を懐かしむ心情は、すなわち私たち日本人の本質に直結するものだ。里山を絶え間なくメンテナンスして維持する民族性は、伊勢の遷宮を支えてきた原動力であり、明治神宮の森を生み出し育む力の源になっている。

  しかし、かつて神社合祀令という愚行によって取り返しの付かない破壊をおこなったのも同じ日本人である。それによって多くの鎮守の森が消滅し、同時にその地域独特の祭礼なども失われた。

いま、都市部の多くの神社は鎮守の森を喪失している。東京では名だたる古社でさえ、森を喪失している。明治神宮の森が〟例外〝であるのは、無念やるかたない。

森 の喪失が愛国心の喪失につながるのと反対に、森を造り出し生み出すことは愛国心のよみがえりになるだろう。明治神宮のあの豊かな森を数十年で生み出したこ とを思えば、各社の鎮守の森を復活させるのが不可能とは思えない。私たちはこの風土で育まれているのだ。随神道(かんながらのみち)とは、日本の風土とと もに生きることである。そしてそれが真の愛国心というものであるだろう。

 

〈了〉   

 

戸矢 学(歴史作家・神職 /『伝統と革新』第十一号所載)

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