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2014年11月23日 (日)

馬琴はヒルコを「北極星」ととらえた

 曲亭馬琴といえば『南総里見八犬伝』であまりにも有名なので「戯作者」あるいは「読本作者」とのみ思いがちだが、実は歴史考証について造詣が深い。
 随筆の類を見ると驚くべき博覧強記で、その裏付けがあればこその伝奇名作の数々と思われる。
 一般にはほとんど知られていない随想『玄同放言』に、ヒルコについての興味深い考証がある。

「書紀に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冊尊(いざなみのみこと)、大八州国(おほやしまのくに)、及(また)山川草木を生み給ひて、更に日の神大日〓貴(おほひるめのむち)を生み、次に月の神月夜女尊(つきよみのみこと)を生み、次に蛭児(ひるこ)を生み、次に素戔嗚尊(すさのおのみこと)を生み給ふ段、(※〓の字は、靈の巫が女に置き換えられたもの。和字。)
日の神・月の神のうえへは、理(ことわり)よく聞えたれども、蛭児素喰戔嗚は、何(いか)なる神といふよしを誌(しる)されず。
 後に史を釈(とく)もの、亦発明の弁なし。按ずるに、蛭児(ひるこ)は、日子(ひるこ)なり。
 天慶六年日本紀竟宴の歌に、蛭児をひるの子と詠(よめ)り。
 毘留能古(ひるのこ)即(すなわち)日之子也、ひほ音通へり、日子(ひるこ)は星なり、星をほしと読するは、後の和訓(やまとよみ)にして、この訓はじめて、仁徳紀に見えたり。
 当初(そのかみ)星をひる子とも、約(つづめ)てひこともいへるなるべし。」(改行は筆者による)

 天慶六年は西暦で九四三年、その六月に「日本紀竟宴」の記録が見える。
 この当時には、どうやら「蛭児は日子」と認識されていたようだ。
 しかも、「星」の謂いである。
 大日?貴(アマテラス)が太陽で、月夜女尊(ツクヨミ)が月であるならば、蛭児(ヒルコ)はどの星を体現するのか。

「かゝれば蛭児は星の神なり、星といふともその員(かず)多かり、是を何(いずれ)の星ぞといふに、蛭児は即(すなわち)北極なり。
 この故に、已(すで)ニ三歳(みとせ)ニナルマデ、脚(あし)猶(なお)立タズ、故(かれ) 之ヲ天盤橡樟船(あめのいわくすふね)ニ乗セテ、順風(かぜのまにまに)放棄(とくはなつ)といへり。
 論語(陽貨篇)孔子ノ曰、子生レテ三年、然後ニ父母之懐ヲ免(はなる)、その三歳まで立たざるものは、必(かならず)?弱(おうじやく)不具なるをいふなり、」

  ヒルコは「北極星」であると馬琴はいう。(増補新版『ヒルコ 棄てられた謎の神』河出書房新社 より)

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