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2014年10月30日 (木)

料理のネーミングは誰の責任か

ある有名ラーメン店に「味噌どんとこいラーメン」というのが登場した。
私は「またか」という思いでなるべく見ないようにした。
少なくとも、私が店にいる間に誰も声に出してそのメニューを注文しなかったのは幸いだった。
料理人自身によるのか、誰が担当するのか知らないが、
料理のネーミングには思わずのけぞるような恥ずかしいものがしばしば登場する。
かつて紀伊半島の某ホテルのフレンチ・レストランで、思わず固まってしまった記憶がよみがえる。
シェフの名は全国的に有名で、料理も評判にたがわぬレベルのものであったが、
料理名には激しい抵抗をおぼえたからだ。
たとえば「詩人の宝石に海より深い愛と囁きをこめた一皿」のようなものだ
(どうやら著作権があるらしいので、似た雰囲気でご容赦を。私にはこの手の才能は乏しいようです)。
こういった傾向のネーミングは、別にここだけのオリジナルではない。
全国各地で時々見かけるものだ。
一方、ネーミングそれ自体を完全に「出し物」にしてしまうノリもある。
大阪の某居酒屋に
「日曜7時のお茶の間風磯野家のサラダ・たらちゃんドレッシング」というものがあった。
これは不思議と「どんなサラダかな」と考えさせるもので、店にも客にも馴染んでいた。
良くも悪くも話題にさせようというコンタンが、いかにも大阪風で、これは否定しない。
「どまんなか」という山形のお米がある。なかなかおいしいお米である。
しかしお米を買うのは主に主婦であろう。
その主婦に「どまんなか、ください!」と言わせたいのだろうか。
「どまんなか」という音感は、含羞(はじらい)を失った女性ならいざ知らず、
口に出すのは抵抗があるだろう。だいいち、あまり品のいい言葉ではない。
とても、まともなマーケティングがおこなわれたとは思われない。
──さてあなたは「味噌どんとこいラーメン、ください!」と注文できるだろうか?
私には、とてもその勇気は、ない。 (「考えるパン」より再録)

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2014年10月26日 (日)

富岡製糸場が国宝だって?

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富岡製糸場が国宝だって?
おいおい、全国に築数百年以上の神社がどれだけあると思ってるんだ?
しかも重文にさえなっていないものが目白押しだよ。

写真は、宇治上神社本殿覆屋。もちろん国宝であり、世界遺産だ。
康平3年(1060年)頃建立の現存最古の神社建築(京都府宇治市)であります。
富岡の工場が、これと同格だというのかな?

(写真はWikipedia「神社建築」より引用)

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2014年10月15日 (水)

Amazonの「古代日本史」ジャンルで1位になった!素直にうれしい!

Ichii

読者の皆さんのおかげです。

感謝。

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2014年10月 5日 (日)

「大化の改新」の真相──ゆがめられた歴史を解読する

 「乙巳の変」についての日本人一般の知識は、教科書や教則本で学んだ「統一見解」「共通認識」で固定されているのではないか。すなわち、「中大兄皇子と中臣鎌足による腐敗政治の刷新」である。以前はこのクーデターそのものを「大化改新」と呼んでいたほどだ。
 中大兄皇子は天智天皇となり、現在に至る天皇家の直接の祖となっている。
 中臣鎌足は、藤原姓を下賜されて藤原鎌足となり、日本の歴史上最も栄えた一族・藤原氏の祖となっている。
 つまり、乙巳の変の首謀者二人の子孫が、以後の日本の主役になるのであって、いわば「主役交代」の瞬間なのである。まぎれもなく日本史上のクライマックスの第一だろう。

  乙巳の変の瞬間まで、蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷、入鹿と四代に亘って栄耀栄華を極めてきた。稲目が大臣となった五三一年頃から乙巳の変で蝦夷・入鹿父子が死ぬ六四五年まで、実に百十年余の長きに亘る。飛鳥は「蘇我氏の時代」と称して誤りはないだろう。
 その権力の源泉は天皇家(大王家)との姻戚関係を構築したことが大きな理由の一つであるが、その概略を列挙してみよう。
  (中略)
 第二十九代から第三十四代に至るまで、実に天皇五代に亘って「蘇我系」である。これは、藤原氏の全盛期を「望月」に例えて謳歌した、かの道長の時代を凌駕するものではないか。これほどの栄耀栄華、権力集中は日本史上稀有である。
  しかも、蘇ってついに頂点をきわめた者が、その最高最上のハレの場でトップが謀殺されるという結末である。怨霊となるにこれほど相応しい資格はちょっと他には見当たらない。
 しかし入鹿が怨霊となって中大兄皇子や中臣鎌足らに祟ったという直接の記事は『日本書紀』にはまったくない。仮にもその類の記事が編述されていたならば、最終の検閲者である不比等によって削除されたであろうし、不比等が編纂責任者となったのはそれこそが目的であったと言っても過言ではないのだ。「歴史は勝者が創るもの」という常識を忘れてはならない。
(『怨霊の古代史』河出書房新社 より)

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