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2014年3月17日 (月)

岡本太郎の記憶

 85年頃、岡本太郎にインタビューしたことがある。青山の自宅へうかがって、3時間ほどのことだが、もうこれ以上聞くことがないというまで、いつまででも付き合ってくれたのはありがたかった。
 口数の少ない人で、記事になるだけの話がなかなか聞けなくて往生した。私が10話すと、やっと1話すくらい寡黙なのだ。
 確かにテレビで見ていても、言葉を断片的に発しているだけで、まとまった話をするのを見た記憶がない。しかも、滑舌も発声も良くない。ひきつれたような表情も、喋るのがつらそうに見える。インタビューしながら、そんなことを思い出したものだから、もしかすると幼少期に罹患した病気の後遺症なのではないかと思って、尋ねてみた。私の知り合いに、小児麻痺に罹患した経歴の人がいて、彼の表情や話し方に共通するものがあったのだ。──しかし明快な返事はなかった。
 私とカメラマンがいる間、家政婦(後に養女になった人だが、そう紹介された。実際には秘書であったようだ)がお茶を出してくれただけで、他の来客はまったくなく、広い家にも他に人の気配はなかった。制作中のアトリエや庭などを案内してくれるのだが、なぜか「生」の気配がなく、「死」に満ちているような暗い静けさがあった。岡本は、ここで一日中黙って暮らしているのだろうか。まるで、家に寡黙が充満しているかのようだ。著作の饒舌さが嘘のようだ。
 インタビューをすることが決まってから、私は岡本の著作を何冊か読んだ。それ以前にも、かなり昔に著作は読んでいたが、その時には文体に抵抗があって、読み切れなかった。
 しかしあらためて読んでみて、私がかつて抵抗があったのは、「表現方法」にあることがわかった。女性のエッセイストにしばしば見かけるものなのだが、私なら恥ずかしくて用いることのない表現や形容が多用されているのだ。──岡本の死後に明かされたことだが、養女となった敏子がすべて代筆していたということで、ずいぶん経って、さもありなんと納得することになった。そうなのだ、あれは女性特有の文体だったのだ。著書の何冊かは実際に自分で書いたものもあったかも知れないが、基本は代筆で、しかもそういうことが非難されるべきことか否かなど、まったく意に介さない人であったようだ。インタビュー構成による原稿だと思えば、私も別に非難しようとは思わない。そういう方法は時には有効で、かつ有用だろうと思っている。この時のインタビューをもとに書いた私の記事も、岡本があたかも流暢に語っているかのようであるが、事実はまったく正反対である。断片をつなぎ合わせて、著作からもピックアップして、私が“編集”したものだ。記事というのは、趣旨が伝わるのが第一で、そのためにする“編集”は、むしろ必要な約束事であるだろう。そして岡本太郎にも、その作業は必要なことであったのだ。

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2014年3月 9日 (日)

久高島の風葬を冒涜した“芸術家”

「それは十二年前のイザイホーのとき、過疎のすすむこの島で、これがもう祭の最後になるかもしれないというので、多くのカメラマンや報道関係者をうけいれたという。おそらくそのカメラマンのなかの不心得者だろうが、風葬の後生に入って墓を写真にとるばかりか、棺を開けて死者の写真まで撮った。その棺をしばった太い針金をペンチで切るほどの荒しようであった。しかもその写真は、ある好奇心のつよい、太陽の好きな前衛画家の見学記を入れて、週刊誌にのせられたのである。村のショックは慟哭するほど大きかったという。」(五来重『葬と供養』「久高島の風葬」1979年)

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