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2012年10月29日 (月)

桓武天皇の漢風祭祀…封禅と郊祀

 天皇即位にあたって、必要な手続きは天武天皇によって定められたものである。すなわち践祚(せんそ)大嘗祭(だいじょうさい)をおこない、三種の神器を継承することで天皇となるものだ。
 しかし桓武天皇は、これをそのままおこなうだけではなく、史上初めてとなる祭祀をもおこなった。それが「郊祀(こうし)」である。
  郊祀とは、秦始皇帝に始まる最上位の皇帝祭祀である。文字通り都の郊外でおこなう祭祀であって、封禅(ほうぜん)の亞種である。
 封禅は皇帝(始皇帝が「天子(てんし)」に代わる尊号として創始)となるための一世一度の祭祀であるが、泰山(たいざん)まではるばる出向き、山頂及び山麓において皇帝一人でおこなうものをいう。
 「封(ほう)」は、泰山山頂に壇を造り天を祀り、「禅(ぜん)」は泰山の麓で地を祀るもので、合わせて「封禅」という。これによって「天命」を受けて天子となる。
 郊祀はこれを受け継ぎ、都の南の郊外に天を祀り(天壇(てんだん))、北の郊外に地を祀り(社禝(しゃしょく))、宗廟に祖先を祀る(宗廟(そうびょう))こととしたようだ。天壇は冬至の日に祀り、地壇は夏至の日に祀った。詳細を記した記録がないためそれぞれの次第は不明だが、とくに南郊祭祀が尊ばれ、後にはこれを指して郊祀というようになったようだ。あるいは、北郊は臣下を代理に立てておこない、南郊のみを皇帝自ら親祀した。
  北京に残る天壇は明・清時代に実際に使われたもので、郊祀を公開の場でおこない、天子として君臨する根拠を広く示すことを一つの目的ともしていた。
 わが国では、天壇に天神を祀り、地壇に地祇を祀り、宗廟に皇祖・祖神を祀った。
 ちなみに天皇家では現在、宇佐神宮を「第一の宗廟」としている。ということは、つまり皇祖神の第一であるという意味である。
 わが国では、郊祀は、桓武天皇が二度おこない、文徳天皇が一度おこなっている。他に公式の記録はない。
 なお、桓武天皇が郊祀をおこなった場所には注目しておく必要があるだろう。
 北河内の交野(かたの)である(現在の大阪府交野市)。
 交野は百済王(くだらのこにきし)一族の拠点であったことから、若き頃より深い関わりがあった。後に内侍所(ないしどころ)の尚侍(しょうし)(女官長)となる百済王明信(みょうしん)は、桓武天皇の初恋の女性であったとされる。
 その縁もあって、即位して後も交野に行幸することしばしばで、記録に見えるだけでも実に十数回に及ぶ。天皇行幸の回数は他に比較するところもない。
 目的は狩猟がほとんどであるが、「郊祀」のために二回行幸している。延暦四年十一月、延暦六年十一月、ともに冬至の日である。桓武天皇は、交野に天壇を設けて「天」を祀ったのである。場所は交野の柏原野とされるが、具体的にどの辺りかは判然しない。京都のほぼ真南になるはずである。
 ところで河内の交野は、ニギハヤヒが降臨したとされる場所である。ニギハヤヒは神武に国土と十種神宝を譲った千住神である。八咫鏡と八坂瓊勾玉をアマテラスから授かり、神武に受け渡すまで護持していたという来歴をもつ。その降臨地で桓武天皇は郊祀をおこなった。これは、ただの偶然ではないだろう。郊祀は「天神」を祀るものだ。この地で郊祀がおこなわれたということは、祀られた天神はニギハヤヒであったと考えるのが自然だろう。(『ツクヨミ・秘された神』より)

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2012年10月25日 (木)

聖徳太子は斑鳩宮から通勤したか

 斑鳩に宮の造営を始めたのは六〇一年、完成してこちらへ移住したのは六〇五年(推古十三年)冬十月である。厩戸皇子は三十一歳、上宮一家全員とともに斑鳩宮へ移った。
 厩戸皇子の執政は、事実上はここまでであったと私は考えている。三十一歳で事実上の引退である。
 斑鳩宮は、推古天皇の皇居である豊浦宮、小墾田宮のある明日香から直線距離でもおおよそ十五キロメートル離れている。道のりにすれば二十キロメートルほどになるだろうか。当時の交通事情や服装を考えれば「通勤」するのはまず無理だろう。
 仮に徒歩で通うとすれば、時速五キロメートルとして片道四時間である。往復八時間。これで通勤するのもちろん現実的ではない。
 皇子のみが馬に騎乗して早駆けであれば、一時間ほどで往来するのは不可能ではない。『聖徳太子伝暦』には、驪駒(くろこま)に乗って、毎日早朝小墾田宮に出勤し、執務を終えると斑鳩へ帰るので、あわただしい日々であったと記されている。そういうことにしなければ成り立たないのだということを、伝暦の著者もわかっていたのだ。
 乗馬のかけあし駈歩であったとすれば時速二十キロメートル、これで走り続けて片道一時間。整備された馬場での事例だが、千四百年前の斑鳩・小墾田間の道は、毎日馬で走り抜けることができるように整地整備されていたのか。その場合は、皇子の郎党は毎朝夕、ハーフ・マラソンをおこなったことになるが、まさかこの説を信じる人はいないだろう。伝暦がこの説を採ったのは、他に説明のしようがないからだ。
 千四百年前の奈良の道は、ほんの一部の石畳を除けば、ほとんどが剥き出しの土の地面であっただろう。雨が降ればぬかるみ、馬が頻繁に往来すれば荒れ果てる。(『怨霊の古代史』より)

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2012年10月23日 (火)

李玖さん 食卓の記憶(再録 2005年7月17日記)

李玖さん 食卓の記憶 (2005年7月17日記の再掲です。)

朝鮮・李王家のただ一人の直系である李玖氏が急逝された。
東京の某ホテルに滞在中に、心臓麻痺であった。
滞在中といっても、半ば暮らしているようなもので、おそらくはその時もお一人ではなかったかと思う。

李玖氏とは途切れ途切れではあるが長いおつきあいで、氏が生まれ育った“自宅”の思い出を聞いたのも、今や、むしろ寂しい記憶になった。
その“自宅”とは、赤坂プリンスホテル旧館のことである。
あの堂々たる洋館は、李王朝最後の王位継承者・李垠氏と李方子(まさこ)ご夫妻の新居であったのだ。それがなぜプリンスホテルになったのかは、猪瀬直樹氏の著書に詳しい。
李玖氏はそこで生まれ育った。
「皇族扱い」であった李家の食卓は、洋食であったという。
明治以後、日本の皇族の食卓はなぜか洋食が定番であったのだ。

日朝の王家の混血であった李玖氏は、そのゆえに複雑な事情に振り回された。
日本で生まれて学習院に学ぶが、軋轢に耐えきれず、若くしてアメリカに留学する。
最終的にはマサチューセッツ工科大学の建築科を卒業して、アメリカを中心にビジネスに携わった。
戦後の韓国には帰れない年月が長かったが、日本にも居場所はなく、アメリカに留学したものだ。
そんな経歴のためもあって、氏は韓国語(朝鮮語)はまったく不得手で、日本語は話すだけで読み書きは不得手、英語がまるで母国語のようになっていた。
そして、それは「食」の好みにも象徴的に表れていた。
氏の行きつけの店が都内にいくつかあったのだが、なかでもお気に入りは銀座のパスタ屋であった。
銀座東急ホテルに滞在している時は、すぐ近くのこの店に気軽に寄っていたようだ。
その頃、私もオフィスが東銀座にあって、氏に招かれてご馳走になるのは、水と粉にこだわったパスタばかりであった。
何度か食事をご一緒したが、いつもパスタと決まっていて、和食も韓国料理も一度もなかった。
パスタは、李玖氏にとっては「孤立のアイデンティティー」でもあったのかも知れない。

心よりお悔やみ申し上げます。
 
(2005年7月17日 戸矢記)
 
http://www.kangaerupan.com/contents09/page003.shtml

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2012年10月14日 (日)

『洋酒天国』創刊号

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サントリー広報誌『洋酒天国』創刊号
昭和31年発行。
あまりにも有名ですが、まだサラリーマン時代の開高健が編集長でした。
全編、彼の趣味で統一されています。
ちなみに二代目編集長には、これも後に作家となる山口瞳が就任。
まあ、言って見れば「伝説的なPR誌」ですね。

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2012年10月13日 (土)

生涯の、わが酒量

Jurakudai 一日平均3合の酒を呑むと、一年で1095合になる。
すなわち197リットル。
ドラム缶が約200リットルだから、ほぼそれくらいの量を毎年呑んでいることになる。

多いと言えば多いが、少ないと言えば少ない。

生涯に60年間呑み続けるとして、ドラム缶60本。
1万2000リットルである。

25mプールの容量が、約40万リットルだから、その30分の1にも達しない。
そう考えるとたいした量ではないよなあ。
人体の卑小さを思い知らされる数字だ。

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2012年10月 6日 (土)

蘇我氏の出自を隠した日本書紀

 乙巳の変に関する記述については、明らかに改竄の痕跡が見られるというのは定説になっている。とはいうものの、『日本書紀』という歴史書が全編に亘って改竄されているというわけではないのはもちろんだ。必要もないのに改竄するはずもなく、書紀が最古かつ最重要の文献の一つであることは論をまたない。
 それでは、乙巳の変に関しては何故改竄が必要であったのか。
『日本書紀』の編纂事業には長い年月を要している。その間、何人もの天皇や高位高官がこれに関与している。とすれば、当然のこととして、その人々の意向がそれなりに反映されることになる。
『日本書紀』が成立したのは七二〇年(編纂開始は六八一年)。この時の政治のトップは藤原不比等である。右大臣となって十二年、誰も不比等に逆らう者はいない、天皇を除けば実質的な独裁者であった。この人物がすなわち、最終検閲者ということになる。
『日本書紀』の改竄問題はその文体から解き明かされた。かつては純粋の漢文体であると考えられていたのだが、中には、純粋の漢文の語法や語彙とは言えないものが散見されると判明した。本来漢文にはありえない語法や語彙、すなわち日本風の語法や語彙が一部にみられるのだ。日本風の語法や語彙、これを「倭習」と呼ぶのだが、とくに乙巳の変についての記述は倭習が頻出している。編纂当初の原文は、おそらくは史部(ふひとべ)として起用した渡来系氏族の者によって書かれた純粋の漢文であるが、それから実に四十年近くも後に完成することになったため、加筆や修正には日本人の手が加わったと考えられる。
 不比等にとって、至上命題は「藤原氏の氏祖である中臣鎌足の美化」「乙巳の変・入鹿殺害の正当化」である。そしてそのために対抗措置・前提となるのは「蘇我氏を貶めること」である。
 蘇我氏の評価が下がれば下がるほど、その反動として中臣鎌足のおこなった行為は「英雄的行動」となる。
 これがもし、蘇我氏に正義があったとすれば、入鹿殺害は国家的大犯罪である。乙巳の変に大義はあった、中大兄皇子や中臣鎌足たちに正義はあったと、歴史書には記されていなければならない。鎌足の子息である不比等が改竄し、それを時の天皇である元明天皇が承認した。元明帝は、天智天皇(中大兄皇子)の皇女である。
(『怨霊の古代史』河出書房 より)

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2012年10月 1日 (月)

死して神となる日本人

「神道は、すべての人が死しては神になるという思想である。つまり私の先祖もあなたの先祖も誰もが皆、代々死しては神となって祀られているということだ。
 この思想は古来、日本人の民族思想として貫かれてきたものだ。
 中世から戦国期にかけては、一部の人々が仏教に帰依するものの、依然として日本民族の基軸思想は神道(随神道(かんながらのみち))にあった。その証左が全国にくまなく鎮座する神社である。
 ただ、例外は江戸期の一六六四年から明治維新までの二百年余である。この間の数代が、死しても神になれなかった。というのも、周知のように総人口の九割以上が幕府によって檀家制度・寺請制度を強制されたため、死すればホトケになるものとされたからである。
 しかし明治五年、神仏分離令の発布により再び古式に復することとなる。

 こうして継承されて来た神道の思想によれば、記・紀の神々も同様に、私たちの祖先であって、死して後に神として祀られたと考えるのが当然というものだろう。
 もしそれを「観念上の神」とするなら、かえって私たちの血脈をそこで途絶えさせることになる。
 私たちは祖先を敬うという民族気質・民族文化を保有しており、いつの時代においてもそうであったはずである。もちろん古代においても祖先を敬った。その祖先とは観念ではなく、文字通り血脈の祖先である。私たちの血脈は、ある時突然発生したはずもなく、もちろん観念から産まれたわけではなく、当然ながらどこまでも続く血脈である。
 そして、この思想を大前提とすることによって、神話の中に少なくない系譜不詳の神々もその姿がよりはっきりと見えてくることになる。ヒルコはさしずめ、その第一番手であろう。天神でありながら流され棄てられた神とは誰なのか。
 神々は実在したという前提から考えると、日本神話の中の多くの真相が見えてくる。」(『ヒルコ 棄てられた謎の神』河出書房新社 より)

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