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2012年8月27日 (月)

万葉集の歌に詠まれた「ツクヨミ」

 単純に「月」の擬人化としてツクヨミと呼ぶものと(祭神名にはない表記を用いている)、「月神」としてのものと二種見られる。

 月讀の 光に来ませ 足疾(あしひき)の 山を隔だてて 遠からなくに(巻第四の六七〇)
 月讀の 光は清く 照らせれど 惑へる情(こころ) 堪へじとぞおもふ(巻第四の六七一)
 天(あめ)に座す 月讀壮士(つくよみをとこ) 幣(まひ)はせむ 今夜(こよひ)の長さ 五百(いほ)夜継(よつ)ぎこそ(巻第六の九八五)
 海原の 道遠(とほ)みかも 月讀の 明(あかり)少なき 夜は更けにつつ(巻第七の一〇七五)
 み空往(ゆ)く 月讀壮士(つくよみをとこ) 夕(ゆふ)去らず 目には見れども 因(よ)る縁(よし)もなし(巻第七の一三七二)
 天橋(あまはし)も 長くもがも 高山(たかやま)も 高くもがも 月夜見の 持てる越水(をちみづ) い取り来て 公に奉りて 越(をち)得じむかも(巻第十三の三二四五)
 月余美の 光を清み 神島の 磯海(いそま)の浦ゆ 船出すわれは(巻第十五の三五九九)
 月余美の 光を清み 夕凪(ゆふなぎ)に 水手(かこ)の声呼び 浦海(うらま)漕ぐかも(巻第十五の三六二二)

(澤瀉久孝『新校萬葉集』より 書き下しは筆者)(『ツクヨミ・秘された神』参照)

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2012年8月 9日 (木)

藤ノ木古墳の被葬者は誰か?

 

 2009年の年末に、飛鳥・藤ノ木古墳の発掘調査で新しい事実が判明した。画期的な考古学的発見でもあったので全文紹介しよう。

「藤ノ木古墳 花粉が語る被葬者像 穴穂部皇子と宅部皇子か──供花に夏のベニバナ、6月暗殺符合

 金銅製の冠など豪華な副葬品の発見で知られる奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(国史跡)の石棺に納められた2人の被葬者が、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部(あなほべの)皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部(やかべの)皇子の可能性が極めて高いことが、石棺から出土した大量のベニバナ花粉の研究で分かった。夏に咲くベニバナが死者を弔う供花として納められたとみられ、日本書紀が記す587年6月の暗殺時期と一致した。石棺に残されたミクロの花粉が、被葬者像を絞り込む興味深い成果として注目される。
 同古墳は直径約50メートルの円墳で、石棺は盗掘を受けておらず、昭和63年の発掘調査で金銅製の靴やガラス玉で装飾された大刀、2人の被葬者の人骨などが埋葬当時の状態で見つかった。
 石棺内からは、大量のベニバナの花粉を検出。当初は被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡ともみられていたが、金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)の研究で、染料にすると花粉はほとんど残らないことが判明。石棺には、ベニバナの生花が供花として納められている可能性があることが分かった。
 ドライフラワーが入れられた可能性も残されているが、生花だったとすれば被葬者は夏に埋葬されたことが確実で、昭和63年の同古墳調査を担当した前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は、被葬者は587年6月7日に殺害された穴穂部皇子(生年不明)と、翌日に殺された宅部皇子(同)と推定する。
 前園教授は考古学的見地からも、副葬品の金銅製靴は本来は六角形の文様で統一するところを、一部が五角形になるなど製作ミスがある▽石棺の加工が粗い▽遺体の骨同士が結合したまま出土しており、死後間もないころの埋葬──などの点を列挙。「被葬者は不測の事態で死んだため、古墳や副葬品を急遽(きゅうきょ)つくった可能性が高く、2人の皇子が死んだ状況と矛盾はない」と指摘している。」(二〇〇八年十一月一日 産経新聞大阪朝刊 総合一面)

 藤ノ木古墳は、法隆寺のすぐ裏手(西側)三〇〇メートルほどのところにある。昭和六十三年に、橿原考古学研究所がファイバースコープにより石棺内調査を実施。これによって奇跡的にも未盗掘であったと判明した。それだけに、タイムマシーンのように千数百年の時を超えて、埋葬時の数々の「情報」が現代に届けられたことになる。
 石棺内に納められていた青銅鏡や大刀など、豪華な副葬品の数々は、平成十六年に国宝に指定。石棺の周囲には、象や鳳凰などを透かし彫りにした馬具も見出されている。
 石棺に納められている人骨から、被葬者は一人が二十歳前後の男性、もう一人は二十~四十歳の男性とされる。つまり、男性二人が一緒に埋葬されているということで、これもきわめて異例のことだ。この点からも、何か特別な事情があったものと判断せざるを得ない。(『怨霊の古代史』河出書房新社 より)

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2012年8月 6日 (月)

なぜ「中国の歴史書」で日本の古代史を検証するのか

 日本の古代史を検証するのに、もっぱら中国の文献資料に頼るのはどうしたことかと思っているひとも少なくないに違いない。かくいう私も、かつて歴史を学び始めた頃にそう思っていた。日本の歴史なのだから、まず第一に日本の資料を精査すべきではないか、と。
 しかし残念ながら日本の文献資料(歴史書)には八世紀以前のものがない。最古の文献が『古事記』で712年、『日本書紀』で720年である。残念なことにそれ以前のものはすべて失われてしまった。手掛かりになるものは、「考古学資料」しかないのだ。
 なお、隣国・朝鮮の文献はさらに頼りにならない。『日本書紀』に参考文献として書名の上がっている「百済三書(「百済記」「百済新撰」「百済本記」の総称)」が失われたのは残念なことだが、それ以前には文献はなく、それ以後もない。現存する最古の歴史書は『三国史記』で1145年成立であるから、まったく参考にならない。韓国朝鮮は、むしろ日本の文献によって自分たちの古代事情を学んでいるありさまだ。
 ところが中国には、はるかに古い歴史書がいくつも存在する。とはいっても一般読者には『三国志』くらいしか馴染みがないと思うので、ここで簡単に紹介しておこう。『史記』に始まる歴代の歴史書を総称して「二十四史」と呼ぶのだが、日本の古代史に関わりが深い唐代以前の一五書を列挙しておこう。書名の後に編纂者名、成立年を付した。

『史記』司馬遷 紀元前91年
『漢書』班固 82年頃
『三国志』陳寿 紀元290年
『晋書』房玄齢・李延寿 648年
『後漢書』范曄 445年
『宋書』沈約 490年頃
『南斉書』蕭子顕 537年
『梁書』姚思廉 626年
『陳書』姚思廉 636年
『魏書』魏収 554年
『北斉書』李百薬 636年
『周書』令狐徳フン 636年
『隋書』長孫無忌 656年
『南史』李延寿 659年
『北史』李延寿 659年

 すでに紀元前に『史記』が成立しているというのは驚くべきことで、『古事記』より800年以上も前である。
『漢書』でも82年頃成立だから、650年近く以前だ。
 しかも重要なことは、これらのほぼすべてに、日本と関わりのある記事が記されているということだ。
 ここに挙げたものは中国の正史、すなわち国家によって編纂された歴史書であるが、これ以外にも『論衡』『山海経』『翰苑』などがある。それらもやはり記・紀より古く、そして日本(倭人・倭国)についての記述がある。
『漢書』および『論衡』は、ともに一世紀に成立した文献であるが、すでにその時代に「倭人」「倭国」との認識が見える。始まりはいつ頃か判然しないが、少なくともこの直前の時代、つまり周王朝(紀元前1046年ごろ-紀元前256年)の時には「倭」と呼ばれていた(あるいは名乗ってもいた)と確認できる。
 わが国が「倭」から「日本」へ呼称を代えるのは八世紀のことであるから、おおよそ一千年間は「倭」と呼ばれていたということが、中国の歴史書からわかる。そして同時に、当初から江南地方(呉越地方)と往来交流があり、とくに関わりがあったことをうかがわせる。

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2012年8月 3日 (金)

日本最古の文字記録である『先代旧事本紀』の重要性


『先代旧事本紀(旧事紀)』が偽書扱いされてきたのは、基本的には序文と本文内容との矛盾である。

 簡単に言えば、序文において聖徳太子と蘇我馬子によって編纂されたと記しながら、本文には太子や馬子の死後の事象が記されている。

 これをもって本居宜長以来この方、先代旧事本紀は偽書の汚名を被ることとなったのだ。

 しかし近年その資料価値に再評価の機運があって、とくに『国造本紀』は代わるもののない独自の資料である。

 にもかかわらず、満足な全訳さえいまだないのが現状だ。これはひとえに偽書扱いにかかるものである。

 近年の再評価のポイントは、序文のみが後世の偽作であって、これを除外すれば、との観点である。

 しかし、本当にそうなのだろうか。個々の字句にわたる詳細な検討は本書の役割ではないので省略するが、私たちが見ているのは後世の「写本」である。原典は存在しない。それは記・紀も同じ条件だ。

 ただ、写本の成立年代が比較的新しいという弱点はある。写本は写本にすぎないという主張の仕方もあるのだが、やはり時代が下るほど写本の評価は下がることになる。その理由は、原本が失われる可能性が低くなるからであり、写本自体の必要性も同時に低くなるからである。

 歴史的に貴重な資料が失われるのは、主に政治的混乱が惹起された時である。

 とくに政権が交代する時に多くの貴重な資産が消滅した。

 神社や寺院は比較的その災厄から逃れることができているが、それでも戦火に巻き込まれた例は少なくない。正倉院が無傷で残ったのは奇跡とも言えることなのだ。

 記録上、日本で最初の歴史書は「太子と馬子が編纂した」と『日本書紀』に記されている『天皇記』『国記』『記』である。

 そしてこれらは、乙巳の変、いわゆる大化の改新で蘇我本宗家が焼き討ちされて焼亡したとされる。

 私は『旧事紀』の元になった資料、あるいは原典こそは、蘇我本宗家が滅亡した際に焼失したとされる『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記(おみむらじとものみやっこくにのみやつこももあまりやそとものをあわせておおみたからどものほんき)』であろうと考えている。もしくは、まさにそのものであったかもしれない。

 たとえば記・紀にない「国造本紀」こそは『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』の一部ではないかと考えている。

 かの六四五年の蘇我邸焼き討ちの際に、原典の一部が救出されたと『日本書紀』に記されているのだ。

「蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る。」

 船史恵尺なる人物が焼け落ちる蘇我邸から持ち出して、中大兄皇子に献上したと記録にある『国記』こそは、『先代旧事本紀(旧事紀)』の原典そのものかもしれない。

 記・紀がそうであるように、現在私たちが目にすることのできる『先代旧事本紀』は「写本」である。あるいは「編集本」であるかもしれない。

 これをもって、記・紀より遙かに後世の成立とするのは、研究する者として正しい姿勢とは言えないだろう。

 写本につきものの異動や誤記は当然であるが、それ以外に後世の加筆が混在しているために、著しく価値を下げてしまったが、本文のかなりの部分は記紀より以前の、我が国最古の文字記録であると私は考えている。(『ニギハヤヒ 〈先代旧事本紀〉から探る物部氏の祖神』河出書房新社刊 より)

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