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2011年10月27日 (木)

記・紀の神々は「実在」した、すなわち「歴史上の人物」である。


 

 日本の根元の神を問われれば、多くはアメノミナカヌシ(天御中主神)やカミムスヒ(神産巣日神)などを挙げるかもしれない。それは日本神話の始源に登場する独り神、つまり無性別神である。

 独り神であるがゆえに、かれらは「神生み」をおこなわない。

 その役割は、イザナギ・イザナミという夫婦神の誕生まで待たなければならない。

 そして、この夫婦神から私たちの日本は始まるのだ。すなわち、それが私たちの「根元の神」であり「祖先神」である。

 しかし私は、この定義に敢えて異を唱えて、「根元の神」という概念を「系譜の始まり」としてとらえたい。ただ、何をもって「根元」というかは人それぞれであって、まして神を指し示すとなれば、異論は少なくないだろう。

 そこで私は、ここに一つの提案をおこなおう。

「実在した神」すなわち、歴史上の特定の「人物」をもって比定できる神をもって根元ととらえたい。

 イザナギはイザナミとまぐわうことによって多くの神々を生むのだが、最後に「火の神・カグツチ」を生んだために、イザナミはホトを焼かれて死んでしまう。

 その後、イザナギは黄泉の国へイザナミに会いに行くのだが、その再会と再度の離別の経緯はさておいて、逃げ帰ったイザナギはアワギハラで禊して身を清める。──その際に、とくに尊い神を生むのだが、私はそれを「根元神」とよびたい。

 これ以前の神は「観念としての神」であり、一種の「精霊神」であろう。

 イザナギ・イザナミ二神はすべての国土と、それを統治する多くの神々を生むが、この二神を実在とするのは無理だろう。国生み・神生みのすべての源を一組の夫婦神ということにしたのは、思想である。神話創造の一つの典型が、ここにある。

 しかしその後の展開は、まったく次元が異なる。その後の日本神話は、単なる空想物語ではなく、一種の「叙事詩」であると私はとらえている。

 したがって、神話叙述の合理的な解釈をおこなえば、古代における事実関係等々が浮かび上がってくるはずである。

 その解釈の鍵になるのが古代人たちの「思想」だ。

 彼らが神というものをどうとらえていて、いかなる理由があれば神と認めたのか。天つ神・国つ神という「神の区別」はいかなる理由によってなされたのか。それによって神話の中の神々の「誕生の所以」が判明し、「神話の意味」もおのずから明らかになるだろう。

 神道は、すべての人が死しては神になるという思想である。つまり私の先祖もあなたの先祖も誰もが皆、代々死しては神となって祀られているということだ。

 この思想は古来、日本人の民族思想として貫かれてきたものだ。

 中世から戦国期にかけては、一部の人々が仏教に帰依するものの、依然として日本民族の基軸思想は神道(随神道、かむながらのみち)にあった。その証左が全国にくまなく鎮座する神社である。

 ただ、例外は江戸期の一六六四年から明治維新までの二百年余である。この間の数代が、死しても神になれなかった。というのも、周知のように総人口の九割以上が幕府によって檀家制度・寺請制度を強制されたため、死すればホトケになるものとされたからである。

 しかし明治五年、神仏分離令の発布により再び古式に復することとなる。

 

 こうして継承されて来た神道の思想によれば、記・紀の神々も同様に、私たちの祖先であって、死して後に神として祀られたと考えるのが当然というものだろう。

 もしそれを「観念上の神」とするなら、かえって私たちの血脈をそこで途絶えさせることになる。

 私たちは祖先を敬うという民族気質・民族文化を保有しており、いつの時代においてもそうであったはずである。もちろん古代においても祖先を敬った。その祖先とは観念ではなく、文字通り血脈の祖先である。私たちの血脈は、ある時突然発生したはずもなく、もちろん観念から産まれたわけではなく、当然ながらどこまでも続く血脈である。

 そして、この思想を大前提とすることによって、神話の中に少なくない系譜不詳の神々もその姿がよりはっきりと見えてくることになる。ヒルコはさしずめ、その第一番手であろう。天神でありながら流され棄てられた神とは誰なのか。

 神々は実在したという前提から考えると、日本神話の中の多くの真相が見えてくる。

 たとえばスサノヲの降臨伝承も、解き明かすための突破口がここにある。スサノヲは新羅の曽尸茂梨に降臨したが、その地に留まることを欲せず、すぐに船を仕立てて出雲へ渡ったと記されている。

 この伝承をもって、スサノヲは新羅人であって、それがヤマトへ渡って武力統一したという解釈が横行している。しかしはたしてそうだろうか。スサノヲが実在した人物であると考えれば、新羅へは何処からかやってきて、一時的に滞留したが、新羅という土地・人を好まず、すぐに通過して日本へ来たと解釈するのが理にかなっているだろう。

(『ヒルコ』河出書房新社刊 第一章より抜粋)


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2011年10月18日 (火)

法隆寺に封印された怨霊は誰なのか。その正体が明らかに…

 呪いの救世観音像は、厩戸皇子(聖徳太子)の等身と言われるが、はたしてそうなのか。
 しかし大きな目、鼻梁の発達した鼻、分厚い唇──これらの特徴は厩戸皇子のものではないのではないか。
 フェノロサはモナリザの微笑と並列して賛美し(『東洋美術史綱』)、和辻哲郎はモナリザ以上の美しさと絶賛した(『古寺巡礼』)。
 しかし救世観音像を前にしてその言葉を読み上げてみても、彼らがそのために費やす言葉の数々は空虚なばかりで眼前の像とまったく一致しない。彼らは何を見てそう言ったのか。
 納得できる言葉は、彫刻家で詩人の高村光太郎から発せられたのが唯一のものだ。彼の眼は、率直であった。
「救世観音像も例によって甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、」(高村光太郎)
 法隆寺の救世観音像は、そういう容姿容貌なのである。(『怨霊の古代史』より引用)

──はたしてその正体は何者か。真相は、本書にてこの続きをご高覧あれ。

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2011年10月16日 (日)

■天文博士・安倍晴明は、時の天皇に何を奏上したか。その本来の役目は?


 

 安倍晴明の最も重要な職務は「天文密奏」であった。

 つまり、天文博士である晴明は、天の異常を察し、それに基づいて地の変化、人の変化を読み解き、それを天皇に直接奏上する。これが天文密奏である。

 映画や漫画で(それ以前にも舞台や小説で)繰り返し描かれてきたために、すっかり「呪術師」のレッテルを貼られてしまったが、晴明の本来の姿はオカルティストではない。そういう意味では、晴明の本来の陰陽原理がいかなるものか、現在ではほとんど知られていないと言っても良い。いわゆる伝説の類ばかりが喧伝(けんでん)されて、実像はいよいよ見えなくなっている。

 実像を知る最良の方法は著書を繙(ひもと)くことであるが、唯一の著書『占事略決』は、彼一流の表現に満ちていて、なおかつ最小限の語彙にとどまっている。未知の他者に説明する必要がなかったためもあるだろうし、また勝手な解釈を拒絶するためもあったかも知れない。結果として本書を完全に理解できている人はおそらくきわめて稀であるだろう。彼の論理体系は、推理する以外に方法がない。

 なお、彼の編纂になると言われる『〓〓(ほき)内伝金烏玉兎集』は、陰陽道の聖典であるかのように扱われて来たが、後世の作というのがもはや一致した見方であろう。所載のいくつかについて俗説巷説の見られるのも、観点の明確さや一定の視点を失ったことに拠っているのではないか。おそらくは晴明の陰陽原理を継承しながらも、次第に形骸化し、正しい部分もあるが、歪曲されてしまった部分もある。晴明以後に発生した迷信俗信を取り込んで混合させた所為かもしれない。

 わが国独自の発展を遂げた陰陽道(おんみょうどう)すなわち日本風水は、陰陽五行本来の原理を踏まえ、かつわが国に連綿と伝えられた古神道の原理を融合させた時点を原点としている。そしておそらくは、天武天皇の手法も、晴明の手法も同じラインにあるだろう

 天武帝については、その指示のもとに開発された数々の事績がそれを示唆している。たとえば藤原京の設計、そして伊勢の神宮の遷宮システム、陰陽寮の設置、三種の神器の設定等々、驚くべき歴史的成果であり、かつそれらすべてがこの統合原理を示しているのも、いかにも示唆に満ちている。

 晴明については、初期の陰陽寮での取り組みと、後世の取り組みとの差異からも推測されるし、唯一の著書『占事略決』と、伝編纂の『〓〓(ほき)内伝金烏玉兎集』との差異からもやはり同じ答えに辿り着く。いわゆる「晴明伝説」の類は、実相を見えなくすることくらいにしか役に立たないと知るべきであるだろう。

 晴明の真の実力は、もっと現実的なところにあって、だからこそ畏怖されたと、私は理解している。彼の陰陽原理は超現実的な「占い」などではなく、天文地理の総合判断に裏付けられた、きわめて現実的な「予測」であった。そしてある部分では「予防」であり「回避」でもあっただろう。しかもそれらが国家的なレベルでの成果として結実しているならば、誰もその評価を疑うことはない。それこそは、政(まつりごと)の本質である。

 なかでも、地震は天文地理の重要課題である。

 晴明の密奏には、いくつかの最重要課題があった。まつりごとに多大な影響を与えかねない課題。10世紀という時代を考えれば、まだ「日蝕」や「流星」も重要な課題であったろう。しかも、晴明の生きた時代(9211005年)には、特別な天文現象が少なからず観測された。

 967年 大流星雨

 975年 皆既日蝕

 976年 火星大接近

 989年 ハレー彗星接近

 1002年 大流星雨

 これらは当然ながら、晴明の密奏のメイン・テーマになる。

 そしてこれらと無関係ではない「地震」も、その一つであったことは間違いない。(『日本風水』より)

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2011年10月15日 (土)

海部(あまべ)一族とは何者か?

 海部氏は、その名の通り元々は「海の仕事に携わる人々」で、漁業および操船航海術によって朝廷に仕えた品部(しなべ)の一つだ。記紀の応神朝に「海部を定めた」とあるところから、対朝鮮半島の水軍兵力として、とくに海人を組織することが求められたからと思われる。
 全国各地の海部を朝廷の下で伴造(とものみやつこ)として統率する役割を果たしたのは、同族の阿曇連(あづみのむらじ)や凡海連(おおしあまのむらじ)であった。
「あづみ」は「あまつみ」の転訛で、本来は「海人津見」であろう。
 阿曇連(あづみのむらじ)や凡海連(おおしあまのむらじ)も、渡来系の氏族であるが、いってみれば海人族とは海洋民族のことであって、基本的に陸地民族とは異なる規範を持っている。
 とくに古代においては、陸上の道よりも海上の道のほうがはるかに利便性が高く、これを特権的に利用活用する海洋民族は、地理観や規模観もよりダイナミックで、ある種の国際性を先天的に身に着けている。
 陸がつながっていなくとも、海がつながっていれば一つの経済圏であるというのは、一種のコスモポリタニズムであるだろう。
 ある時期、海人族は世界各地に雄飛するが、陸地の政権との軋轢から分断と定着を余儀なくされる。
 日本においても同様で、「あま」の音に因む地名が全国の沿岸地域に数多く残っているのはその名残である。海人族は、古代から日本文化に深く関わってきた。
(『ツクヨミ・秘された神』河出書房新社 より)

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2011年10月 8日 (土)

富士山を入山禁止にしよう!

Fuji

オーストラリアのエアーズロック(ウルル)が全面的に入山禁止になるようだ。

「オーストラリア観光の目玉として人気の巨大な岩山エアーズロックの登山が早ければ2011年10月にも、全面的に禁止される見通しとなった(その後、延期)。(略)この地をウルルと呼び聖地と見なす先住民アボリジニが、入山に強く反対してきたのが最大の理由。最近では、登山客によるゴミ投棄や、滑落事故の増加も問題となっていた。」(読売新聞)

同じことを日本でも、ぜひ。

富士山は日本人の信仰の山。なのに汚れ放題、荒れ放題で、歯止めがかからない。

日本人の総意で全面入山禁止にしよう!

それが日本人の良心というものだろう。

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