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2011年2月25日 (金)

「大化の改新」の真相──ゆがめられた歴史を解読する

 これ(乙巳の変)についての日本人一般の知識は、教科書や教則本で学んだ「統一見解」「共通認識」で固定されているのではないか。すなわち、「中大兄皇子と中臣鎌足による腐敗政治の刷新」である。以前はこのクーデターそのものを「大化改新」と呼んでいたほどだ。
 中大兄皇子は天智天皇となり、現在に至る天皇家の直接の祖となっている。
 中臣鎌足は、藤原姓を下賜されて藤原鎌足となり、日本の歴史上最も栄えた一族・藤原氏の祖となっている。
 つまり、乙巳の変の首謀者二人の子孫が、以後の日本の主役になるのであって、いわば「主役交代」の瞬間なのである。まぎれもなく日本史上のクライマックスの第一だろう。
  これまで見てきたように、乙巳の変の瞬間まで、蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷、入鹿と四代に亘って栄耀栄華を極めてきた。稲目が大臣となった五三一年頃から乙巳の変で蝦夷・入鹿父子が死ぬ六四五年まで、実に百十年余の長きに亘る。飛鳥は「蘇我氏の時代」と称して誤りはないだろう。
 その権力の源泉は天皇家(大王家)との姻戚関係を構築したことが大きな理由の一つであるが、その概略を列挙してみよう。
  (中略)
 第二十九代から第三十四代に至るまで、実に天皇五代に亘って「蘇我系」である。これは、藤原氏の全盛期を「望月」に例えて謳歌した、かの道長の時代を凌駕するものではないか。これほどの栄耀栄華、権力集中は日本史上稀有である。
  しかも、蘇ってついに頂点をきわめた者が、その最高最上のハレの場でトップが謀殺されるという結末である。怨霊となるにこれほど相応しい資格はちょっと他には見当たらない。
 しかし入鹿が怨霊となって中大兄皇子や中臣鎌足らに祟ったという直接の記事は『日本書紀』にはまったくない。仮にもその類の記事が編述されていたならば、最終の検閲者である不比等によって削除されたであろうし、不比等が編纂責任者となったのはそれこそが目的であったと言っても過言ではないのだ。「歴史は勝者が創るもの」という常識を忘れてはならない。
(『怨霊の古代史』河出書房新社 より)

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2011年2月20日 (日)

斎藤さんの氏神

 芥川龍之介の小説『芋粥』は、かつては国語の教科書にも載っていたのでご存じのかたも少くないでしょう。
 主人公の貧乏公家に大量の芋粥を供するのは、敦賀の武人・藤原利仁です。彼は、鎮守府将軍までつとめた中世武人の代表的人物です。
 その利仁の嫡男に、藤原叙用という人がおりました。武人としては異例の起用で「斎宮頭(さいくうのかみ)」に任じられます。
 斎宮とは、「さいくう」「さいぐう」「いつきのみや」などとも読みますが、伊勢神宮の斎王のこと。神職とは別格で、未婚の皇女から選ばれ、古来祭祀の象徴的存在です。
 その役所が斎宮寮で、数百人規模から成り、祭祀全般を執りおこないます。斎宮頭とは、この斎宮寮の長官です。皇室にとってきわめて重要な役職であるところから、それまでは公卿から任ぜられるのが慣例でした。
 叙用は、この役職を誉れとして、「斎宮の藤原」略して「斎藤」と名乗ったのが始まりです。つまり、この人こそは、全国の斎藤さんのご先祖様ということですね。
 由来が「斎宮」ですから、「さいとう」という読み方をする苗字は、どのような異字であっても、元は「斎藤」ということになります。
 異字には、斉藤、齋藤、齊藤、才藤、済藤、西東、西塔、西頭、西藤、斎当、犀藤、薺籐、財藤、斉当、斎東、齋東、再東など多種ありますが、その表記の種別によって分家などの由来を表しています。
 もっとも、利仁将軍の武名にあやかって、血縁はないものの「さいとう」を名乗った人も各地にいたとのこと。その中には、「遠慮して」略字や異字を用いた人もいたとは当然考えられます。
 その斎藤さんの氏神は、菅生石部神社(すごういそべじんじゃ 石川県)です。(以下、詳細は略)
(『氏神事典』河出書房新社 より)

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2011年2月10日 (木)

怨霊神・物部守屋を祀る神社

▼守屋神社  福島県岩瀬郡岩瀬村大字守屋字守屋坂47
【祭神】天照大御神 菊理媛命 物部守屋連
▼守屋神社  福島県会津若松市湊町大字原字西山3269
【祭神】物部守屋大連
▼守屋神社  福島県会津若松市湊町大字平潟字夏狼ケ獄乙1477
【祭神】物部守屋大連命
▼大輿(おおこし)神社(通称・氏神さん 山梨県中巨摩郡田富町今福331
【祭神】守屋大臣
▼守屋社  長野県上伊那郡高遠町大字藤沢字片倉7165
【祭神】物部守屋大連
▼錦山(にしきやま)神社  岐阜県高山市江名子町368番地
【祭神】物部守屋大連命 (合祀)倉稻魂神 武甕槌神 天兒屋根神 經津主神 姫神 吉國社
▼波久奴(はくぬ)神社 通称・萩野(はぎの)神社  滋賀県東浅井郡浅井町高畑296
【祭神】高皇産靈神 (配祀)物部守屋大連
▼市杵嶋姫(いちきしまひめ)神社(村屋坐(むらやにます)彌冨都比賣(みふつひめ)神社の境内社) 奈良県磯城郡田原本町蔵堂426
【祭神】炊屋姫命 宇麻志摩遲命 (配祀)物部守屋連
▼弓削(ゆげ)神社  愛媛県南宇和郡城辺町緑
【祭神】物部守屋大連 (配祀)大雀命 伊弉諾命 伊弉册命 倉稻魂神 建速須佐之男命 櫛稻田比賣神 菅原道眞

 私の調べた限りでは、いずれの神社にも讃えるべき遺徳や神威は伝わっておらず、にもかかわらず守屋のみに限定して祀るということは「鎮魂」以外のなにものでもないということになる。
 なぜならば、生前の守屋に宗教的属性はほとんど見当たらないからである。
 信仰対象となるような事績も、慕われるような遺徳ある事績も見当たらない。むしろ「逆賊」として討伐・誅殺されたという記録ばかりが目立っている。
 しかしすでに指摘したように「逆賊」がもし事実であるならば神社に祀られることはなく、祀られているということは、遺徳・神威を讃えるためか、それとも怨霊の祟りを畏怖し鎮めるためかのいずれかなのである。
 すなわち“守屋神社”は、怨霊の祟り鎮めのために創建されたものである。祟りがあればこそ、慰霊鎮魂が求められるのであって、守屋社の存在はその証左である。
 もし彼が書紀のいうように「国家的大犯罪人」であるならば、この神社の存在理由を説明できないことになる。

(『怨霊の古代史』河出書房新社 より)

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2011年2月 8日 (火)

呪いの形代・救世観音像のモデルは誰か

 救世観音像は、厩戸皇子(聖徳太子)の等身と言われるが、はたしてそうなのか。
 しかし大きな目、鼻梁の発達した鼻、分厚い唇──これらの特徴は厩戸皇子のものではないのではないか。
 フェノロサはモナリザの微笑と並列して賛美し(『東洋美術史綱』)、和辻哲郎はモナリザ以上の美しさと絶賛した(『古寺巡礼』)。
 しかし救世観音像を前にしてその言葉を読み上げてみても、彼らがそのために費やす言葉の数々は空虚なばかりで眼前の像とまったく一致しない。彼らは何を見てそう言ったのか。
 納得できる言葉は、彫刻家で詩人の高村光太郎から発せられたのが唯一のものだ。彼の眼は、率直であった。
「救世観音像も例によって甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、」(高村光太郎)
 法隆寺の救世観音像は、そういう容姿容貌なのである。そのモデルこそは、この「呪いの人形(ひとかた)」によってここ法隆寺に封印される人物であろう。
(『怨霊の古代史』河出書房新社 より)

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2011年2月 6日 (日)

天守閣と記さず、天の主の天主閣とした信長…

「天主閣は近江坂本より高くせよとの仰せでございました」
「さもあろう。御屋形様は一番でなければ気が済まぬゆえ」
 天守閣という建築様式は、光秀の発案になるもので、近江坂本城で初めて築造されたものである。落成披露に招かれた吉田兼見はそのさまに驚嘆して「驚目しおわんぬ」と日記に書き記している。また、宣教師ルイス・フロイスも、「この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と記している。
 信長が安土城築城に当たって坂本城を意識し、より高く聳える天守閣を望んだのは当然のことであるだろう。
「──ただ、御屋形様は天守閣と記さず、天の主の天主閣であると仰せになられましてござりまする」
「天主、とはデウスのことではないか。そもそも吾が天守閣と名付けたは、天は守る、の意なるぞ。天主では、天の主だ。それなら天主閣は、天の主の居る所となって、そはさながら社寺のようではないか」
 これはもはや城ではない。建屋としては最も高き所に神は住まいするとの意味であろうが、ならばその神とは誰のことか。天の主と称するつもりなのか。
「日向守様、お声が高うござりまする。…なにとぞ、なにとぞお平らに」
(『天眼…光秀風水奇譚』河出書房新社 より)

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築城術に才能を発揮した明智光秀

 数々の城を手掛けて築城の名手といわれる光秀にして、坂本城はその最高の精華となるものであった。
 宣教師ルイス・フロイスが「安土城に次いで美しい」と讃えたほどに美麗を極めた造形で、とくに琵琶湖にせり出した水城という形式は南蛮好みであったに違いない。
 フロイスはその著『日本史』の中で、キリスト教に好意的な人物については褒め称え、否定的な人物については悪意に満ちた書き方で録しているが、光秀についてはひときわ悪逆非道な描写である。彼ら宣教師に対してよほど苛烈な対応であったのだろうと容易に想像できる。しかしそのフロイスが同一の報告書の中で坂本城を讃えているのだから、よほどの感動であったに違いない。            
(『天眼…光秀風水奇譚』河出書房新社 より)

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