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2011年2月20日 (日)

斎藤さんの氏神

 芥川龍之介の小説『芋粥』は、かつては国語の教科書にも載っていたのでご存じのかたも少くないでしょう。
 主人公の貧乏公家に大量の芋粥を供するのは、敦賀の武人・藤原利仁です。彼は、鎮守府将軍までつとめた中世武人の代表的人物です。
 その利仁の嫡男に、藤原叙用という人がおりました。武人としては異例の起用で「斎宮頭(さいくうのかみ)」に任じられます。
 斎宮とは、「さいくう」「さいぐう」「いつきのみや」などとも読みますが、伊勢神宮の斎王のこと。神職とは別格で、未婚の皇女から選ばれ、古来祭祀の象徴的存在です。
 その役所が斎宮寮で、数百人規模から成り、祭祀全般を執りおこないます。斎宮頭とは、この斎宮寮の長官です。皇室にとってきわめて重要な役職であるところから、それまでは公卿から任ぜられるのが慣例でした。
 叙用は、この役職を誉れとして、「斎宮の藤原」略して「斎藤」と名乗ったのが始まりです。つまり、この人こそは、全国の斎藤さんのご先祖様ということですね。
 由来が「斎宮」ですから、「さいとう」という読み方をする苗字は、どのような異字であっても、元は「斎藤」ということになります。
 異字には、斉藤、齋藤、齊藤、才藤、済藤、西東、西塔、西頭、西藤、斎当、犀藤、薺籐、財藤、斉当、斎東、齋東、再東など多種ありますが、その表記の種別によって分家などの由来を表しています。
 もっとも、利仁将軍の武名にあやかって、血縁はないものの「さいとう」を名乗った人も各地にいたとのこと。その中には、「遠慮して」略字や異字を用いた人もいたとは当然考えられます。
 その斎藤さんの氏神は、菅生石部神社(すごういそべじんじゃ 石川県)です。(以下、詳細は略)
(『氏神事典』河出書房新社 より)

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2011年2月 8日 (火)

呪いの形代・救世観音像のモデルは誰か

 救世観音像は、厩戸皇子(聖徳太子)の等身と言われるが、はたしてそうなのか。
 しかし大きな目、鼻梁の発達した鼻、分厚い唇──これらの特徴は厩戸皇子のものではないのではないか。
 フェノロサはモナリザの微笑と並列して賛美し(『東洋美術史綱』)、和辻哲郎はモナリザ以上の美しさと絶賛した(『古寺巡礼』)。
 しかし救世観音像を前にしてその言葉を読み上げてみても、彼らがそのために費やす言葉の数々は空虚なばかりで眼前の像とまったく一致しない。彼らは何を見てそう言ったのか。
 納得できる言葉は、彫刻家で詩人の高村光太郎から発せられたのが唯一のものだ。彼の眼は、率直であった。
「救世観音像も例によって甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、」(高村光太郎)
 法隆寺の救世観音像は、そういう容姿容貌なのである。そのモデルこそは、この「呪いの人形(ひとかた)」によってここ法隆寺に封印される人物であろう。
(『怨霊の古代史』河出書房新社 より)

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2011年2月 6日 (日)

天守閣と記さず、天の主の天主閣とした信長…

「天主閣は近江坂本より高くせよとの仰せでございました」
「さもあろう。御屋形様は一番でなければ気が済まぬゆえ」
 天守閣という建築様式は、光秀の発案になるもので、近江坂本城で初めて築造されたものである。落成披露に招かれた吉田兼見はそのさまに驚嘆して「驚目しおわんぬ」と日記に書き記している。また、宣教師ルイス・フロイスも、「この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と記している。
 信長が安土城築城に当たって坂本城を意識し、より高く聳える天守閣を望んだのは当然のことであるだろう。
「──ただ、御屋形様は天守閣と記さず、天の主の天主閣であると仰せになられましてござりまする」
「天主、とはデウスのことではないか。そもそも吾が天守閣と名付けたは、天は守る、の意なるぞ。天主では、天の主だ。それなら天主閣は、天の主の居る所となって、そはさながら社寺のようではないか」
 これはもはや城ではない。建屋としては最も高き所に神は住まいするとの意味であろうが、ならばその神とは誰のことか。天の主と称するつもりなのか。
「日向守様、お声が高うござりまする。…なにとぞ、なにとぞお平らに」
(『天眼…光秀風水奇譚』河出書房新社 より)

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築城術に才能を発揮した明智光秀

 数々の城を手掛けて築城の名手といわれる光秀にして、坂本城はその最高の精華となるものであった。
 宣教師ルイス・フロイスが「安土城に次いで美しい」と讃えたほどに美麗を極めた造形で、とくに琵琶湖にせり出した水城という形式は南蛮好みであったに違いない。
 フロイスはその著『日本史』の中で、キリスト教に好意的な人物については褒め称え、否定的な人物については悪意に満ちた書き方で録しているが、光秀についてはひときわ悪逆非道な描写である。彼ら宣教師に対してよほど苛烈な対応であったのだろうと容易に想像できる。しかしそのフロイスが同一の報告書の中で坂本城を讃えているのだから、よほどの感動であったに違いない。            
(『天眼…光秀風水奇譚』河出書房新社 より)

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