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2010年10月26日 (火)

大化改新の実態は、蝦夷・入鹿の継承

 大化改新とは名ばかりのもので、おこなった政策施策はほとんどが蝦夷・入鹿の継承であった。しかも律令制の根幹は骨抜きにされている。独自の政策は「近江遷都」と、百済救済のための出兵いわゆる「白村江の戦い」という外交政策くらいである。
 しかも近江遷都は、壬申の乱の終結とともにわずか六年ほどで再び飛鳥へ戻されて、その後二度と近江が都になることはなかった。
 そして白村江の戦いは歴史的な大敗を喫したことはあまりにも有名だ。原因は、当事者が外交も軍事もまったくわかっていないことにあった。蘇我氏が四代に亘って国政を担い積み上げてきた富国強兵を、天智天皇と中臣鎌足は一夜にして雲散霧消させてしまったのだ。次の天武天皇によって再び回復することになるのだが、入鹿を謀殺してまで実現した大化改新の実態はこんなものだ。

『怨霊の古代史』河出書房新社 より

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2010年10月24日 (日)

丹党の氏神は金鑚神社(かなさなじんじゃ)

丹党の氏神は、埼玉県児玉郡神川の金鑚神社(JR八高線・丹荘駅)。
社伝では、「日本武尊東征の折、御姨倭比姫命より賜った火鑽金火打石を御室山に収めて」それに由来するとなっている。
当社には本殿がなく、拝殿のみで、背後の神体山そのものを拝礼するという原初の信仰形態だ。
古代、秩父地方は銅の産出で有名であったが(和銅開珎)、鉄や丹の産出も際立っていた。
それが山を拝むことにつながったものだろう。

丹党発祥の系譜についてはいくつかの説がある。
『武蔵七党系図』では、宣化天皇の曾孫多治比古王を祖とし、その子孫・多治比(丹比)氏が武蔵国に居着いて丹党になったとするが、その系図自体に疑問がもたれている。
現在では、紀国造家より発したという説が有力だ。
丹生系図によれば、丹生都比売の祝家となった大丹生直丹生麿の後裔・丹貫主峯時が丹党の祖となる(この後、武蔵守・多治比氏の子孫を一族に迎えて丹比としたか)。

丹党は、古代より秩父地方から群馬にかけて大いに栄えてきたが、
その力の源泉は産出される豊富な資源にあった。
奥州藤原が金を産出したのに対して、秩父平氏が銅、そして丹党は文字通り「丹」を掌握することによって力を得た。
「丹(に)」とは辰砂のことで、水銀と硫黄の化合したもの。
すでにわが国では弥生時代から採掘されていた。
丹党は、丹生神社(丹生都比売)を祀ることで一族の結束をもはかった。
この一帯には各地に祀られて、その中心が金鑚神社である。

金鑚の字は後世のもので、古くは金佐奈と記される。
これは「金砂」に由来するものだろう。
ちなみに常陸の金砂神社もやはり丹の謂われをもつのもので、
「かなさな」と「かなすな」は元は一つと思われる。
ただ、金鑚神社をはじめ、この一帯の丹生神社は祭神を丹生都比売から変えてしまったところが少なくない。
奥秩父の両神神社も、元は丹生明神と呼ばれていたが、社名も祭神も変わってしまった。
丹の産出が尽きたことと関わりがあるだろう。

『氏神事典』河出書房新社 より

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2010年10月18日 (月)

銅鐸の謎を解く

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銅鐸という謎の祭器は日本独特のものだ。
前方後円墳と同様に、他国にはほとんど事例は見られない。
元は鐘・鈴の一種(ハンド・ベル)であったというのが定説になっているが、
大型化・装飾化する頃には鳴らすための中舌は失われている。
つまり銅鐸は、道具であった時代を終えて、
祭器(ヨリシロ)になってから大型化・装飾化している。
「鳴らす」という機能が失われてから私たちの耳目を集めることになったのは皮肉なことだ。
しかし即物的な音響よりもはるかに大きな響きを私たちに伝えているとも言えるだろう。
その銅鐸は、紀元前後の四百年間ほど熱心に造られてから、
突然ぱったりと消え失せる。これだけのものが突然途絶えるには、
それだけの理由がなければならない。しかし記・紀にも『風土記』にも何の記述もなく、
その理由はこれまでまったく解き明かされていない。
しかしその手掛かりを私はつかんだ。拙著新刊『ヒルコ 棄てられた謎の神』(河出書房新社)にて、ご覧あれ。

(銅鐸写真撮影:戸矢学)

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2010年10月 5日 (火)

新刊『ヒルコ』出だし好調!

新刊『ヒルコ』→八重洲ブックセンター4F(人文書フロア)の週間ベストセラーで8位。

期間2010.09.19~2010.09.25。

店頭に並んだのが20日以降だから出だし好調。

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2010年10月 3日 (日)

ヒルコから解き明かす日本建国秘史

 ヒルコは、イザナギ、イザナミの最初の子(『古事記』)でありながら、棄てられた神である。アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの兄であるのに、この処遇はいかなることか。しかも神であるのに、その来歴がまったく記されていない。
 記・紀にはこの世界のあらゆる神が描かれていて、なかには「こんなものまで」と思わず言いいたくなるような神までいる。
 それなのに、ヒルコは尊貴の生まれでありながら、何の来歴も示されずに遺棄されるのだ。
 はたしてこの神は、どこから来て、どこへ行ったのか。
 始原の神でありながら、生後すぐに葦船に乗せて海に流されたとのみ記されるとは、なんと不可解で象徴的な神話なのだろう。
 神々の物語を単なる空想お伽噺として片付けるのは簡単だが、歴史的事実を表象化したものだととらえれば、むしろ事実はシンプルな形で浮かび上がって来る。
 日本人のルーツは、神話の中にこそあるのだ。しかも歴史的事実として、である。私はそう確信している。
 姫姓の秘密とヒルコの系譜、──拙著『ヒルコ 棄てられた謎の神』(河出書房新社)ではそれを解き明かそうとしている。
 しかもその事実は、驚くべき事にわが国の建国の由来をくつがえすような〝秘史〟を、私たちに覗かせてくれることになる。

Hiruco

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