2019年3月13日 (水)

新刊『東京ミステリー』見本到着。16日発売です。

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2019年2月28日 (木)

【幻の富士山】

 富士山は、実は『古事記』にも『日本書紀』にも、まったく出てきません。
 不二山、不死山、不尽山、福慈山など別名も含めて皆無です。
 存在したという気配さえもありません。 
 日本人なら、この「事実」に驚かない人はいないでしょう。
 日本および日本人の歴史・文化は「富士山と共にある」と思っているからですよね。しかも、それはまぎれもない「事実」だからです。
 富士山と共に歩んできた日本・日本人という事実と、記・紀に登場しないという事実──この矛盾、一体全体どうしたことでしょう? 何が起きたというのでしょう?
 富士山が現在のような美しい山容(姿形)となったのは、おおよそ一万年前とされているので、記・紀が成立した当時──八世紀には、日本国内ではあまねく知られていたことは間違いありません。
 そればかりか、海の向こうにさえもかなり古くからその存在は伝わっていたようです。おそらく紀元前に、すでに大陸沿岸部や半島には知られていたと考えられます。
 しかしなぜか、わが国の最古の史書である記・紀は完全に無視しているのです。
 記・紀が編纂された時代は八世紀ですから、「知らなかった」などとは到底考えられません。
 ということは、「知っていたのに記載しなかった」のでしょう。
 現に、同時代の歌を集めた『万葉集』には富士山が数多く歌われているのです。
 田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける
 
 ほぼすべての学校教科書に掲載されている山部赤人(やまべのあかひと)の歌です。
 ちょっと編集したものが『百人一首』にも入っているので、皆さんお馴染みですね。
 赤人は天平八(七三六)年頃に没したとされるので、それ以前の歌ということになります。
『万葉集』では、他にも数多くの歌に富士山は詠まれています。
 また、ほぼ同時代の養老年間(七一七~七二二)に成立した『常陸国風土記』には「福慈岳(ふじのたけ)」と記載されていて、富士山にまつわる神話が紹介されています。
 いずれも、当時の日本人が富士山の存在をよく知っていたという証しです。
 それなのに記・紀は一切触れていません!
『古事記』は七一二年、『日本書紀』は七二〇年の成立ですから、万葉や風土記と同時代なのに、です。
 これはいったいどうしたことなのでしょう。
 ヤマトタケルは、『古事記』は相模で、『日本書紀』は駿河で火攻めに遭遇して草薙剣で薙ぎ払って窮地を脱するという有名なエピソードが記・紀それぞれ語られます。しかし、どちらも富士山は出てきません。ヤマトタケルの視界にイヤでも入っていたはずなのに、です。
 富士山本宮浅間大社の祭神であるコノハナサクヤヒメは、オオヤマツミの娘として、またニニギの妻として記・紀ともに登場しますが、富士山との関わりは一切出てきません。
 いずれも、なんとも〝不自然〟ではありませんか。どちらも〝意図的に〟避けているとしか思えませんね。
 富士山の存在を認めさせる神社も各地にあって、しかもそれらは記・紀の編纂よりはるかに古くから鎮座しています。
 伊勢の内宮はその代表です。
 内宮は富士山を前提に設計されているのです(詳細は本文にて)。
 つまり富士山信仰はすでに古くからあったのに、記・紀にはなぜかまったく記載されていないということなのです。
 これはいったい、如何なる理由によるものでしょう。
 私はこの謎を突き詰めて行くうちに、解答は一つしかないのではないかと考えるに至りました。
 すなわち、富士山は「禁忌(きんき)」(taboo)であったのではないか、と。
 歌には詠まれても、また地方の記録には登場しても、「朝廷の史書」では触れることさえできない禁忌(タブー)であったのだろうということです。つまり「政治的禁忌(タブー)」あるいは「宗教的禁忌(タブー)」です(古代ではこの二つは一体で、「まつりごと」と総称します)。
 ヤマト朝廷には、富士山に触れてはならない重大な理由があった!──それが私の到達した解答です。そしてそれ以外にこの謎を説明することは不可能でしょう。
 公式の史書に初めて「富士山」が登場するのは『続日本紀』(七九七年成立)の天應元年(七八一)の条です。
『日本書紀』成立(七二〇年)から七十七年経っています。
 つまり、この間に「富士山の禁忌(タブー)」が解消されたということになります。
 この間に何があったのか、真相を知るには、それも大きな手掛かりです。
 ここであらためて指摘しておきますが、「フジ・サン」はヤマト言葉ではありません。漢語であり漢音です。
 もし富士山をヤマト訓みするのであれば「富めるもののふのやま」ということになるでしょうか。
 しかし「富士」は好字令(七一三年)によって選ばれた吉字ですから、「フジ」あるいは「フヂ」という発音がすでにあったということです。
 ただ、それがたとえ不二、不死、不尽、不知などの表記であろうとも、いずれも漢語であって、「fu-ji」という発音を基盤にした当て字ということになります。
 そもそも「フジ」という呼び名自体が漢語音であるとするならば、呼び名自体も新たに付けられたものであって、それ以前に土着の呼び名があったはずです。
 これだけの突出した山岳が聳えていて、呼び名の存在しないはずがないのですから。
 とすれば、古くは別の呼び名があって、ある時期に「フジ」という呼び名が与えられたことになります。
「フジ」山が禁忌とされた理由も、この辺りの事情に由来するのかもしれません。
 本書は、その「秘密」を解き明かすのが目的です。どうやらそれは、私たち日本人のルーツに関わる「秘密」でもあるようです。
 富士山が禁忌(タブー)であったとするならば、それはなぜか。
 また、その後、禁忌が解除されたからこそ、日本人のすべての人口(じんこう)に膾炙(かいしや)する(人々が口にするようになる)こととなるわけですが、どうして解除されたのか。そこに何があったのか。 ──あなたの知らない「富士山の秘密」へとご案内しましょう。
(『富士山、2200年の秘密』かざひの文庫 「まえがき」より)

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2019年2月27日 (水)

いま、私が最も関心を抱いているのは「シンギュラリティ」である。

2045年の時点で、私がまだ生きているかどうかわからないが。 ギリギリか、...

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2019年2月24日 (日)

ドナルド・キーンさん 心よりお悔やみ申し上げます。

...

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2019年2月17日 (日)

ローリング・ストーンズ

キース・リチャーズは、こんな名言を残しています。   「死んでか...

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2019年2月10日 (日)

■諏訪祭祀家の氏神「洩矢神」の秘密

 ニギハヤヒの鎮魂は前述の通りで、物部氏の本宗家から石上(いそのかみ)氏を出し、石上神宮の祀職となり、祖神を祀った。
 それでは肝心の物部本宗家はどうなったかというと、物(もの)部(のべの)守(もり)屋(や)(石上の兄。一説には弟)が本宗家となったが、丁未(ていび)の乱(物部守屋の乱/五八七)で討ち死にしたと伝えられる。この戦いによって、本宗家は蘇我氏に滅ぼされた。──そしてこれについては、さらに二年後の二〇一四年に上梓した拙著『諏訪の神──封印された縄文の血祭り』において追究する機会があった。
 諏訪大社上社の祀職であった神長官・守矢氏の氏神は、その系図に「始祖・洩矢神」と明示されている。
「洩矢神」は、一般に「モレヤのかみ」と読まれているようだが、当然ながらこれは「モリヤのかみ」が正しい。守矢家は通称・神長(じんちよう)家とも呼ばれているのでまことにややこしく、しかも神長官ではなく略されているが(「官」称は遠慮したか)、氏としては「モリヤ」である。氏神に限って「モレヤ」と訓む理由はないので、長い時間が経過するうちにどこかで訛ったものであろう。いずれにしても「モレヤ」と訓む事例は守矢家関連では他には皆無であるので、これが変形であることは自明であろう。
 諏訪地方の姓氏表記(本当は姓ではないので単なる苗字だが)は、守矢、守屋、守谷などがあって、守矢と表記するのが本家とされている。
 にもかかわらず、なぜ始祖が守矢神でなく洩矢神と表記するのか、この点にも謎がある。あるいは始祖「モリヤ」は、「洩れた矢」に特別の謂われか拘りがあるのだろうか。こういう際の選字は、得てしてその〝死因〟に関わることがあるもので、「モリヤ神」の正体を見極める中で手掛かりが見出されるのかもしれない。
 ところで守屋山山麓には、守屋社(通称・物部守屋神社)が鎮座しており、山頂にはその奥宮がある。かつて賑わっていたかはいざ知らず、少なくとも現在は訪ねる人も稀な様子だ。
▼守屋社 長野県伊那市高遠町藤沢片倉
【祭神】物部(もののべの)守屋(もりやの)大連(おおむらじ)
 奥宮には氏子によって常に小さな弓が供えられているが、山麓の里宮(本社)の依り代が「弓」であったことに由来するようだ。伝承では、祭神・物部守屋の弓が納められていたようだが、今は失われている。代わりに細長い石が置かれているが、最近のものだ。諏訪のミシャグジは〝石棒〟であるとされているので、それを承知で誰かがこれを選んだものだろう。守屋山が岩山であるので、守屋社も依り代を石棒とすれば、信仰上の整合は図れる。本来の由来がどうであれ、現在の氏子の意向が反映されているかのようだ。しかし守屋山山頂の磐座と、鉄柵に被われた石祠(守屋神社奥宮)とは、そう簡単に〝一体化〟されるものではない。本宮が、古き神と新しき神の二重構造になっているように、守屋山も二重構造なのである。
 さて、この守屋社と神長官・守矢氏とはいかなる関係にあるのか。
 ここまで確認してきた事実関係からそれを判断するのは、そう難しいことではない。全国の少なからぬ事例──氏族と氏神の関係性──を列挙するまでもなく、これは〝典型〟である。すなわち、神長官・守矢氏の氏神神社は守屋社であり、守屋社の祭神である物部守屋大連は氏祖である。したがって、洩矢神とは物部守屋大連のことである。
 ただ、守矢家では、守屋社および物部守屋とのつながりは表立っては認めていない。ただ、伝説伝承の類はいくつかあって、『信濃奇勝録』(天保五年/一八三四)には、物部守屋の一子が森山(守屋山)に隠れていたが、神長の養子となり、森山に父・守屋の霊を祀り、それ以後、守屋ヶ岳というようになった、とある。
 また、大祝の「諏訪信重解状(げじよう)」(宝治三年/一二四九)には、「諏訪は物部大臣の所領であった」ともある。
 本解状は、『諏方大明神画詞』より百年ほど前のものであり、「画詞」は本解状に基づいて創作されているので、「画詞」よりは資料価値ははるかに高い。しかしそれでも、当時の伝聞を掻き集めたものであるので、一貫性や信憑性を求めることはできない。なかでも右に挙げたくだりは最も重要な証言であるが、「守屋大臣」の表記に問題がある。物部守屋であれば「大連」であり、単なる誤記であろう。ところが後世一般に、この守屋大臣は神長官・守矢氏のことと解釈されている。しかし守矢氏が「大臣」を称したことはなく、こちらを採るなら「大臣」という位を付け加え、しかも「守矢」でなく「守屋」とわざわざ記したことになる。この解釈は一層無理があるようだ。
 ただし、神長官・守矢氏が、物部守屋の子孫であるならば、単なる誤記以外は後世の解釈も誤りではないということになるだろう。
 
 諏訪大社の創建は物部守屋敗死よりはるかに古いのは言うまでもないが、それは古き神・ミシャグジであって、新しき神・建御名方は神居に鎮まり、諏訪信仰の姿を一変させた。そしてそれをおこなったのは、おそらくは祭祀氏族の物部であろう。
 なお、神社ではないが、長野県を代表する寺院の善光寺も物部守屋に由縁の伝承がある。本堂は一〇八本の柱によって支えられているのだが、すべて円柱の中で唯一大黒柱のみが角柱で、これは別名「守屋柱」と呼ばれている。柱の下には物部守屋の首が埋設されていると伝えられる。
 また、善光寺の本尊は、そもそも物部守屋が蘇我馬子の寺を破壊して、仏像を難波の堀江に棄てたものを本田善光なる者が拾い上げて持ち帰ったのに始まると伝えられる。──ただ、善光寺は十一回も全焼しているので、どこまで信憑性を求められるか判然しないが、少なくとも長野という地域が物部守屋と何らかの関わりを持っていたであろうことは示唆してくれる。
(『ニギハヤヒ(増補版)』河出書房新社 増補最終章より)

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2019年2月 6日 (水)

日教組の戦略はみごとに成功した。悲しいかな。

高校の進路指導では、成績が最も良い生徒は医学部受験に導かれる。 これは長年...

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2019年2月 5日 (火)

漫画は、もはやメインカルチャーになった。

「漫画は、もうサブカルチャーじゃないよね」と、宮崎駿さんが言ってましたね。 ...

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2019年2月 3日 (日)

■草薙剣(くさなぎのつるぎ)はスサノヲの依り代ではない。

 三種の神器の一つである草薙剣は、現在ではスサノヲの依り代ということになっている。
 しかし由来を考えると、十握剣がスサノヲの依り代であれば合点が行くが、草薙剣(天叢雲剣)だとすると理屈に合わない。
 スサノヲがヤマタノオロチを退治した際に、その尾から出て来たとしているが、それならばオロチ退治を成し遂げた十握剣こそがスサノヲの依り代として祀られるべきであるだろう。
 スサノヲの佩刀(はいとう)・十握剣(とつかのつるぎ)は「勝者の剣」であり、ヤマタノオロチの体内刀・天叢雲剣は「敗者の剣」である。だからこそ天叢雲剣は怨霊神となって、崇神天皇の御代に祟りを為した。敗者が祟るのであって、勝者のスサノヲが祟る謂われはないだろう。
 つまり、天叢雲剣は別の誰かの依り代である。
(『三種の神器』河出書房新社 第2章より)

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2019年2月 2日 (土)

■江戸にはなかった新たな東京龍脈

 対数螺旋の水路こそは、江戸の一大発展の原理でした。
 ただ残念ながら、現在の東京ははこの形状をとどめていません。
 濠はあちこちで埋められて寸断されて、皇居の周囲を除けば、あとはコマ切れの溜め池にすぎない状態です。
「内堀」「外堀」などという呼び名が現代において定着しているのは、この所為もあるでしょう。現在の東京都内の地図を眺めても、もはや「螺旋水路」を見て取ることは困難です。
 さてそれでは、「螺旋水路」の失われた東京は、弱体化しているのでしょうか。
 ところが現代の東京は、あらゆる意味で最高度に発展したのを裏付けるように、風水もより強力になっているのです。
 その根拠は何か?
 実は、「鉄道」と「道路」が水路に替わってその役割を果たしているのです。
 かつて水路は、都市の経営にとって重要な機能の最たるものでした。
 とくに江戸と大坂は、基幹交通路として活用され、平時は経済活動の動脈として、また非常時は防衛線となっていたのです。
 しかし時代は急激に変化しました。
 それにともなって水路の役割もまったく変わりました。
 鉄道が発達してまず物資の運送運搬機能が失われ、さらに道路と各種車輌の急速な発達は、水路をほとんど無用のものと化したのです。
 存在意義が希薄になれば、風水の意義も希薄となります。それが人工施設の宿命です。
 もともと存在する大自然の「四神」は、人間社会がいかに変化しようとも基本的には不動です。 
 しかし四神相応の整合を図るために人工的に整備造作されたものは、環境が変わって意義に異動があれば当然変わるものです。
 たとえば京都の鴨川の意義が希薄となったのも時代の変化、社会の変化のゆえでした。この青龍が土木工事によって建設されたのは時代が求めていたからでもあって、したがって時代が移り変わればその価値も変わります。
 鴨川は、どぶ川時代を経て、飾りものの観光資源となったのです。
 東京の隅田川も同様です。
 もはやそれらの水路は、日本の文明や社会の発展にとって絶対条件ではなくなりました。
 あえて比較するならば、その必要性において、道路に及ばないことはもちろんですが、鉄道にさえもはるかに後塵を拝するものでしょう。
 ヴェネツィアのような水上都市であるならいざ知らず、現代の都市にとって水路はもはや補助的な機能でしかないのです。
 そして、より大きな経絡(けいらく)に、より強い「気」が集まり伝わるのは基本原理です。
 したがって、いま最も強い「気」は、最も大きな幹線道路や幹線鉄道によって導かれているということになります。
 東京には「環状線」と称されている鉄道と道路が建設され、それらは今もなお生長し続けています。
 そして関東・東京のそれは、ひたすら丸の内界隈を目指すようデザインされているのです。
 そしてその手法のパイオニアが天海なのです。
 天海の呪術の特異性は、ただ一点に収斂されます。
 そう、その答えこそは「富士山」なのです。
 富士山をすべての根源に位置付けることで、これまでの陰陽道(風水・方術)とは異なる原理を生み出しているのです。
  江戸東京が富士山に呪縛された都であることは認識していただけたかと思いますが、それではなぜそれほどまでに富士山を畏敬するのか。その「秘密」を解き明かしましょう。
(『富士山、2200年の秘密』 かざひの文庫 第1章より)
 

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2019年1月30日 (水)

私の基本姿勢はリベラルアーツである。

ちょっと意外かもしれないが。
そもそも、道教や陰陽道はリベラルアーツなんだよね。
古神道も、本質的にはそういえるだろうね。
拙著 『神道と風水』 (河出書房新社)をご覧いただくと、きっとご納得されることでしょう。

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2019年1月29日 (火)

「三種の神器」とは何か?

  三種の神器についての「いかにも真相めいた言説」の一つに、「平家滅亡の時、壇ノ浦に沈みオリジナルは失われた」というものがある。今年はNHKの大河ドラマが『平清盛』であるために、さらに流布されるかもしれない。
 それでは事実は、どうか。
 源平合戦の終幕、安徳天皇はわずか八歳(数え歳)で入水という悲劇の最後であった。そしてその際に、三種の神器のうち八咫鏡(やたのかがみ)は船上御座所にあったが、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉とは二位尼が携行して帝と共に海中へ失われたと伝えられる。そして、曲玉は木箱ごと浮いたためすぐに回収されたが、剣は海中に没して二度と発見されなかった。──これは事実であろう。
 しかし、そのはるか昔、第十二代・景行天皇の時に草薙剣(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))は熱田社に御神体として納められており、宮中に置かれていたのは「写し」あるいは「分身」である。本体(オリジナル)ではない。
 それは鏡も同様で、八咫鏡は伊勢の内宮(ないくう)(皇大神宮(こうたいじんぐう))に第十一代・垂仁天皇の御代に遷座して以来変わらずに鎮座している。宮中賢所(かしこどころ)に祀られるのはやはり「写し」あるいは「分身」である。すなわち平家が持ち出したものはそれである。
 唯一「玉璽(ぎよくじ)(八尺勾璁(やさかのまがたま)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま))」のみ本体が宮中にあるとされる。
 なお、剣と玉璽は天皇の行くところ常に携行するもので、これは現在に至る皇室の慣習で「剣(けん)璽(じ)御動(ごどう)座(ざ)」という。
 この慣例は日本神話に由来するとされるが、いささか異動があるので詳細は本文で明らかにしよう。また、剣璽御動座のために携行される玉璽が本体そのものであるかどうかについても後述する。
 ──という次第で、三種の神器の本体は今も変わらず無事である。どれ一つとして失われたものはない。どうぞ怪しげな流布説に惑わされぬように。
 すなわち──、
▼八坂瓊曲玉の本体は東京・宮中に鎮座
▼八咫鏡の本体は伊勢・皇大神宮(内宮)に鎮座
▼草薙剣の本体は名古屋・熱田神宮に鎮座
 これが事実である。
 冒頭に示したような説は、すべて「写し」または「分身」において起きた事件を元にしている。
  なおこれについても一部に「フェイク」や「レプリカ」と呼ぶ例があるが、必ずしも相応しいとは言えないだろう。フェイクには模造・偽物という意味合いもあるが、「写し」「分身」はあくまでも本体との連結を保証するものであって、本物に準ずる。その意味ではレプリカ(複製)のほうがまだしも実態に近いかもしれない。私自身も、これまでの著書の中で分かりやすさを訴求するために使ったことがある。
 しかし、これとても正確ではない。実は、鏡も剣も、本体と同じ姿であるとは限らないからだ。皇室祭祀に「三種」が必要であるために、失われたり毀損したりした場合には補充補填しているのだが、それは新たに複製を造るのではなく、収蔵品(ストツク)からピックアップしている(古き時代には模造したこともある)。そしてその時選ばれたものが、本体と同じ姿であるとは誰にも確証はない。
 よって、「分身」と呼ぶのが妥当であろう。歴史的には他にも様々な呼び方がされているが、本質的な意味を重視するならこの他に「御霊代(みたましろ)」「形代(かたしろ)」等と呼ぶのも良いだろう(正しくは「本体」さえもアマテラス神の御霊代であり形代である)。
 それでは「本体」は、はたしてどのような姿をしているのか。天皇でさえ見ることはないとされる「本体」は、原則的に誰も知る者はないことになる。
 しかしその姿をしのぶよすがはないわけではない。
 そもそも神器の名称が形状を示唆しているし、記・紀の記録以来、実見の証言や各種の伝承など、手掛かりはいくつかある。そしてそれらを手掛かりに、本書ではありのままの〈姿〉に迫っている。
 それにしてもなぜ〈姿〉に迫るのか、天皇も見ることができないとされる神器の〈姿〉を明らかにして何の意義があるのか。それは不敬ではないのか。──その問いに答えよう。
 たとえば八咫鏡がもし舶載の漢鏡(漢代に製造された銅鏡)であるならば、それが何者によってどのような経路で宮中に入ったのかを知ることで、きわめて重大な事実が明らかになるだろう。
 あるいは、もし国産の仿製鏡(舶載鏡の複製)か和鏡(日本オリジナル)であるならば、神器の起源はさほど古くないことになる。とくに鉄製の鏡であるならば銅製よりも実用的であるが、時代はより新しい。そしてその起源はかなり具体的に特定できることになる。
 いずれにしても、その姿を明らかにすることは、これまで万巻の歴史書が書き連ねて来たすべての事柄の源流を知ることである。当然と言えば当然だが、それを解析して行くと、天皇という存在の本来の意味が明らかになる。ひいては、日本および日本人の「血脈」が明らかになってくる。これこそは本書の目的である。
  なお、宮中祭祀には「三種」揃うことが不可欠である。とりわけ、皇位継承の祭儀においては大前提となる。三種の神器こそは、古来「皇位」すなわち「天皇という唯一無二の地位」の「保証」であるとされる。
 ということは、三種の神器が揃わなければ、天皇たりえないということだ。一つでも欠けていれば、正統性を得られない。日本史上「二つの朝廷」が存在した南北朝も、三種の神器を護持していた理由のみによって南朝こそが正統であると、明治天皇によって公式に追認されたのもその証しである。
 ただ、右に記した通り、宮中の鏡と剣は「分身」であるから、祭祀王として践祚(皇位につく・天皇になる)すれば、いわば〟自動的に〝本体も継承したことになる。宮中三殿はもちろん、伊勢の神宮も熱田神宮も、祭祀王たる天皇の支配下となるからだ。「分身」は、あくまでも宮中祭祀のためのものである。ということは、南朝が護持していた三種のうち、掛け替えのない神器は玉璽のみであったことになるだろう。
 つまり、ことは「皇位の保証」に関わってくるのだ。これほどに「重要な物品」が、他にあるだろうか。金銀宝石などは単に物理的な評価にすぎないが、これら「三種」にはまったく次元の異なる価値がある。その尊さは何ものとも比較しようがない。そもそも三種の神器は、三種類の「神器」であって、単なる道具でもなく、単なる表象でもない。三種の神器は、「神の依り代」なのである。このことを、ほとんどの研究は忘れている。
 玉、鏡、剣をいくら即物的に研究しても、それは即物的な探求にすぎなくて、どこまで行っても「神器」の真の研究にはならない。
  たとえば神器と似て非なるモノと比較してみよう。
 研究者によってしばしば持ち出されるのは西洋のレガリアだ。レガリア (regalia/ラテン語)とは、王権など高い位を象徴するもので、それを持つことによって正当性の保証とする。西欧では王冠や杖など、古代中国では印璽などをもってそれとした。
 しかしレガリアには「宗教的保証」はない。レガリアは、王権の証しであるが、地位の標識であるにすぎない。
 一方、日本の神器の第一の意義こそは「宗教的保証」であって、国家祭祀はこれをもっておこなう。これが、日本の三種の神器と西洋のレガリアの決定的な差異である。
 そして、私たち日本人の祖先たちは、これら「三種」に「神性」を見出した。神話に記されているから神器としたのではなく、神の御霊代・依り代であったから神器・神宝になったのであるだろう。何故に御霊代・依り代となったかは、これも本文に譲る。
 天皇は、神宝である「三種の神器」を継承することによって、天皇であることを保証される。この〟制度〝は、少なくとも一三〇〇年前には現在の形が成立していた。
 それにしても、なぜ「三種」なのか。
 それぞれにどのような意味があるのか。
 由来するとされる神話との関わりは、また史実との関わりは。
 本書は、これらの真相を解き明かすために、三種の神器に先立つ神宝、ニギハヤヒの「十種神宝」、また盗難や行方不明説にも切り込んで、「天皇の保証」に迫る。いま再び「天皇とは何か」が問われる時に、本書はその存在の根底を解き明かそうという試みである。
 天皇即位にあたって代々継承されてきたかけがえのない宝物──八坂瓊曲玉、八咫鏡、草薙剣の三種は、いまもなお厳然たる〟神秘〝として日本文化の根源に存在する。わが国の歴史において、それがいかに重視尊重されてきたかは、多くのエピソード、伝説が示唆している。
 たとえばスサノヲがヤマタノオロチの尾の中から見出す天叢雲剣、崇神天皇に祟る八咫鏡、そして伊勢・五十鈴川畔に辿り着くまでの長い旅路、ヤマトタケルが危地を脱する草薙剣、しかし天武天皇に祟る草薙剣、あるいは平家滅亡に伴われた神器、義経が後白河上皇に渡した神器、南北朝や明治維新での奪い合いから、進駐軍の接収計画──等々。歴史の節目は、三種の神器と大なり小なり関わっていたとさえ言えるかもしれない。
 玉、鏡、剣という三点のキー・ワードは、日本文化を理解する重要なポイント、あるいは視点であるだろう。日本史から「神器」を消すことはできないし、日本文化から「神器」を消すこともできない。そして三種の神器が秘めている思想は、日本人のアイデンティティに直結しているのだ。私たちが今、ここにいてこうしている必然が三種の神器にあると言っても過言ではないだろう。もしも三種の神器がなかったら、これまでの日本史、現在の日本文化はよほど違ったものになっていただろう。
 しかし、「三種の神器」をタイトルとした書籍・類書は実はきわめて少ない。「電化製品の三種の神器」「ビジネスマンの三種の神器」等という使われ方では目にすることが珍しくないにも関わらず、いまや日本人の常識・基本知識から「三種の神器」は欠落してしまったかのようだ。本書は、あらためて「根源」に焦点を当てることで、日本および日本人のアイデンティティを明らかにしよう。

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2019年1月27日 (日)

天皇家の苗字について

 天皇家に苗字のないことは周知のことだが、実は「姫(き)」氏なのだという説がある。
 かなり古くから一部に知られている説で、平安時代の講書(『日本書紀』を天皇に講義した記録)などにも書かれている。博士への質疑の一つに「わが国が姫氏(きし)国と呼ばれるのはなにゆえか」とある。
 姫(き)とは、中国の周王朝の国姓である。つまり、もし天皇家の苗字が姫氏であるならば、日本の天皇は周王朝の血筋であるということになる。
 日本で最も古い氏族の一つである紀伊の国造家は、紀(き)氏という。紀長谷雄(きのはせお)や紀貫之(きのつらゆき)らを輩出している名家の中の名家である。キイ、キノと呼んだりもするがキ氏が本来で、姫氏と同じ発音だ。
 そしてその古い系譜は紀元前にまで遡る。紀氏が海人族を従えて水軍を組織していたことを思うと、中国江南あたり(呉・越などの海人族)と古代から行き来があったというのも現実味がある。鯨漁が発展した下地には、海人族の卓越した漁撈技術があったのだろう。
 元々の姫氏国である周は、紀元前一〇四六年頃に建国し、紀元前二五六年に秦に滅ぼされた。奇しくもその頃から、わが国で「銅鐸」が造られるようになる。
 また、なぜか周王族はその後も存続を許されていて、血筋は絶えなかった。政権が代わると、前の王室を根絶やしにするのが中国の通例なので、秦のこの措置は異例である。
  日本が姫氏国であるとは、中国の歴代王朝を訪問した日本の使節みずからがそう称したのだと、中国の古い歴史書に記されている。どうやら中国の為政者や学者たちの間では昔からかなり知られていたことのようで、記されている文献は一つや二つではない。
  この説の肯定派の代表は儒学者の林羅山、否定派は国学者の本居宣長で、一時期かなりの論争があった。 
 皇室が本当に周王家の血筋であるか、また姫氏であるかはともかくとしても、かつてそう名乗っていたことだけは確かだろう。歴代の中国王朝に対して、朝貢使が「日本国王の姓氏」として皇帝に答えているのだ(他に国姓は「倭(わ)」「天(あめ)」などの異説もあるが、あえて採り上げるほどの根拠はない)。
 国家によって派遣された朝貢使が、国姓を問われて勝手に創作するはずもないので、あらかじめ確認もしていたであろうし、遣使団の中でも主要メンバーには共通認識であったに違いない。
 遣隋使や遣唐使などの遣使は、少ないときで五十人規模、多いときは五九〇人(七三三年)もの集団であったが、中心は身分の高い知識人たちである。皇室ともなんらかの交流があり、歴史関係の資料に接する機会もあっただろう。そういう彼らの応答であるから、いい加減なものであろうはずがない。
 とすれば、それにはそれだけの理由があるのが当然で、もしこれを解き明かすことができるなら、そこからさらに様々な歴史の裏側も見えて来るだろう。
 そしてその手がかりが、始源の「謎の神」にあると私は考えた。
 ヒルコである。水蛭子、蛭兒などと「記・紀」には記される。
 神々の物語を、その後に続く歴史記録から逆算すると、ヒルコ誕生は周の滅亡というタイミングにきわめて近い。
 ヒルコは、イザナギ、イザナミの最初の子(『古事記』)でありながら、棄てられた神である。アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの兄であるのに、この処遇はいかなることか。しかも神であるのに、その来歴がまったく記されていない。
 記・紀にはこの世界のあらゆる神が描かれていて、なかには「こんなものまで」と思わず言いいたくなるような神までいる。
 それなのに、ヒルコは尊貴の生まれでありながら、何の来歴も示されずに遺棄されるのだ。
 はたしてこの神は、どこから来て、どこへ行ったのか。
 始原の神でありながら、生後すぐに葦船に乗せて海に流されたとのみ記されるとは、なんと不可解で象徴的な神話なのだろう。
 神々の物語を単なる空想お伽噺として片付けるのは簡単だが、歴史的事実を表象化したものだととらえれば、むしろ事実はシンプルな形で浮かび上がって来る。
 日本人のルーツは、神話の中にこそあるのだ。しかも歴史的事実として、である。私はそう確信している。
 姫姓の秘密とヒルコの系譜、──本書ではそれを解き明かそうとしている。
 しかもその事実は、驚くべき事にわが国の建国の由来をくつがえすような〝秘史〟を、私たちに覗かせてくれることになる。この国の歴史の根源に至る扉は、この系譜を辿ることによって初めて開かれるだろう。
(『ヒルコ──棄てられた謎の神』 河出書房新社 より)

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2019年1月25日 (金)

■石上神宮の祭神の秘密

■石上神宮の祭神の秘密
 本書『ニギハヤヒ』を上梓したのは二〇一一年であるが、その翌年、拙著『三種(さんしゆ)の神器(じんぎ)──〈玉・鏡・剣〉が示す天皇の起源』を上梓した。
 その際、宝剣の真相を解き明かす鍵となったのが韴霊剣である。
 すでに述べたように、石上神宮は布(フ)都(ツノ)御魂(ミタマノ)大神(オオカミ)を主祭神とし、布留御魂大神(フルノミタマノオオカミ)を配祀している(副祭神として祀っている)。
▼石上(いそのかみ)神宮(じんぐう) 奈良県天理市布留町三八四
【祭神】布(フ)都(ツノ)御魂(ミタマノ)大神(オオカミ) (配祀)布留御魂大神(フルノミタマノオオカミ) 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命(イニシキノミコト) 白河天皇 市川臣命(イチカワノオミノミコト)

 ご覧のように「フツ」が主で「フル」が副である。
 しかし当社は、古くは「布留社」と呼ばれていて、「布都社」ではなかったのだ。
 この事実はいったい何を意味しているのだろう。
 韴霊剣は、明治七(一八七四)年、当時の大宮司であった菅(かん)政友(まさとも)によって掘り出され、本殿に御神体としてあらためて奉安された。
 菅政友が発掘した埋納場所は「布留山(ふるやま)の麓の禁足地」であった。神宮の東にそびえる布留山は、神宮の神体山すなわち神奈備である。その麓に韴霊剣(布都御魂大神)が埋納されていたのはなにゆえか。
 もうおわかりと思うが、これは「封印」であろう。
  祟り神イタケル、すなわちニギハヤヒを布留山に封じたのだ。
 そして当社は、その祟り神を鎮魂するために設けられたものであるだろう。それゆえ、元々当初は社殿もないままに、布留山をひたすら拝するものであった。
 そしてはるか後に拝殿のみが設けられるが、信仰の本質は依然として変わらない。
 変わったのは、発掘の後、発掘した神宝を奉安するために拝殿の奥に本殿を設けてからである。それは大正二(一九一三)年に完成した。すなわち、つい最近のことなのである。
 したがって、現在の石上神宮の祭祀は、布留山を御神体とするものでありながら、その手前の山麓に設けた本殿において韴霊剣すなわち布都御魂大神を祀るという重層構造になっている。神体山の布留御魂大神を祀る古い信仰と、本殿の布都御魂大神を祀る新しい信仰が併存しているのだ。
 さしずめ、「古き祭神」と「新しき祭神」の二つの主祭神と言えるだろうか。
 ちなみに菅政友大宮司による発掘の時、小宮司であったのが、後に文人画家として有名になる富岡(とみおか)鉄(てつ)斎(さい)である。まだ三十代であったが、すでに万巻の書を読み、古今の学問に造詣深く、さらに書画をよくした。そして彼は、境内の榊の木を用いて、木製の写しを製作している。さしずめ「鉄斎の木彫」ということになる。美術工芸的価値もあるので、ぜひ展示していただきたいものだ。
ニギハヤヒ」増補新版
増補の章 ニギハヤヒとタケミナカタ──祖神と本宗家のゆくえ

 

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2019年1月24日 (木)

W主役の今年の大河、ブ男二人では視聴率は無理だろう!?

視聴者の半分は女性だからね~...

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